人畜無害の散流雑記

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「労働」の日本的形態考・その2 「出稼ぎ型」続

 大河内一男著『黎明期の日本労働運動』は明治・大正期の労働者創出と労働運動を対象とし、「出稼ぎ型」労働を析出していた。日本の労働者・労働運動はいつまでこの型に嵌められていたのか? 
 大河内一男隅谷三喜男編『日本の労働者階級』(1955年2月刊)は1950年頃までを対象にして研究を継続している。私の得た結論は、「1945年8月の敗戦後、様々な改革があったが、「出稼ぎ型」労働の骨格は残っている」だった。以下、要旨を紹介する。
 「労働者の生活の再生産が賃金収入プラスXによってはじめて行われるということにも、半プロレタリアたる所以がある」。「横断的な労働市場が欠如し、縁故募集や募集人による募集が優位を占めるのも、久しく住宅問題が社会問題とならず、これに代って賃労働拘置制としての寄宿舎問題が大きな問題となってきたのも、戦時中から次第に住宅問題が叫ばれるに至ったのも、職能別組合が形成されず、企業別組合が大企業を中心に形成されていることも、すべて以上分析した日本の賃労働の存在様式と関連している」。(P11)
「イギリスのように、十五世紀から始まる本源的蓄積期に、ほとんど大部分の独立自営農民を掃滅して十八世紀中頃には資本家的農業経営を確立した国もあれば、十九世紀末においてもなお広汎な小農民が、地主的な資本家的大経営と並んで存在し、農民分解が非常な勢で進んでいたような旧ロシアもある。」(P15)「わが国においては、資本家と賃労働者への農民層の両極分解、それに伴う農業における資本制経営の成立・発展-一言にすれば農業における資本制生産様式の確立がなかったのであり、戦後農地改革が行われたのちもこの点は変っていない。」(P16)「農業外に発達した資本主義の下に、小農的生産様式が成立し、維持され、今日に至っている」。「それは日本資本主義の資本蓄積のスケールが小さいこと、欧米より輸入移植した資本主義が、すでに高度な有機的構成をもつ資本であったこと、したがって労働力の調達が始めから限られていたこと」、「さらに根本的には、金融資本なるものは一般に、農民経済を破壊して農民を賃労働者化し、彼らを直接の生産過程に組み入れて搾取する産業資本的方法と併行して、農民を商品経済の渦中にひきいれて、これを流通過程において収奪するという方法を用いること」が重要な意義を持つ。「農村における労働力を零細な土地、わずかな財産にしばりつけ、そこに「自発的な」労働投下を行わせて剰余労働を取得するという方法が有利でさえある。」(P17~18)「日本における農民層分解の支配的傾向は、零細農経営が存続しながら、その農民家族が賃労働者-とくに農業外の商工業の賃労働者に転化するという形態をとる」=下降分解、「蓄積された資金をもって土地を買い寄生地主化し、さらに地主となったのちは小作料収入によって蓄積された貨幣を農業外に投じて産業資本化、金融資本化するという経路をとり、ついに脱農民化する」=上昇分解。(P18~19)
「昭和十四・五年当時の農村は「その労働力不足が単なる量的不足のみでなく、同時にその質的劣弱をも意味するものであり、いわゆる残存農業労働力は女子および老幼の残滓的劣弱労働力」となり、農業生産力の破壊にまで作用した」。では、戦後の変化は如何に。「ここに、商品生産農民の創設を企図した農地改革の必然性について注目する必要がある。」(P74)総独占資本が求める搾取形態は、農民からの直接搾取だけでなく、「労働者を通しての農民搾取」=「低労賃の基礎を農民が提供するような形態による搾取」=「低労賃→低米価(低価格農産物)」だった。創設されるべき自作農は、農産物の商品化を可能とする経営規模の農民だった。「そのために、農地改革は零細な農民、飯米農家には土地買収を認めなかった」。(P75)「いまや農民層はその商品経済化のゆえに商品経済を求めての兼業、出稼ぎ、他出をますます激化し、資本にとってはそれだけ収略奪の源泉としての労働市場を拡大していく。」「戦前において自小作、小作に集中的であった出稼労働はいまや一町未満層を中心とするにいたり、硬直した独占資本の雇傭にとってはその労働市場は農民層の下層からの枠を破って拡大され文字通り心身両面にわたる雇入選択の自由の好個の舞台と化している。こうして、いまや独占資本の直接的低米価政策と雇傭吸収力の硬直に挟撃されて、いわゆる農村における潜在的過剰人口は停滞的過剰人口の一部を形成するにいたっている。」(P76)
「農村からの過剰人口の流失は土地からの惨めな解放であり、押し出しであり、反逆のない退散でもある。農村、農業、農家との関係は切れるがごとく、切れざるがごとく、これこそ農民分解の矮小化された、変質した、ダラダラした性格に照応する集中形態に外ならない。それだけに、都市に集中した人口、労働力は以前のような還流状態をたどらず、都市社会のなかに深く沈殿していく傾向を一面では強めている。/都市集中の以上のような背景のために、いわば都市化も極めて不完全であり、不明確であり、一面では種々の糸を通して農村とのつながりをもつと同時に、他面では盲目的職業遍歴をたどることになる。農村からの遊離の不完全さは、(イ)賃労働者自身の土地所有、(ロ)非農家出身賃労働者の農業労働の手伝い、(ハ)農家出身賃労働者の予科的農業労働や、(ニ)極めて多くは送金などの形をとっている。と同時に、一般にわが国では職業移動=転職は著しく、とくに、農業、商業などへの職業移動はきわめて安易に行われて、収入の機会を求めてあてどもなき転換をくり返している」。注目すべき点は、「都市に集中した労働力の農村との結合形態の変化」だ。以前には「出稼ぎ型」として農村基点=農村経済の補助、だったが、「いまや、その基点は都市にあり、補助さるべきは」「低賃金自体」にあり、「農家からの仕送りさえもみられる」。「労働力交流における還流型から沈殿型への移行は労働力の型をして出稼ぎ型から、いわば「半農半工型」ともいわれるものに変貌せしめ、結合の比重を低賃金自体に転移せしめつつある。」(P77~78)
 「昭和二十四、五年の大量人員整理期に行われた、被解雇者のその後の行方」調査によれば、「職業的流動ないし移動の分散性と方向の限界性」が合して「階層的な落下を表現している」。(P110~114)
「昭和二十二年職業安定法が制定され、戦争中(昭和十三年)はじめて国営化された(しかしその場合も営利職業紹介所の並存はゆるされて居り、事実終戦後昭和二十一年までは例えば東京上野の駅近辺には古めかしいノレンを下げた「口入所」「桂庵」が店びらきをしていたことをわれわれは知っている。)日本職業紹介制度の執行機関だった強制労働力引出機関、「勤労動員署」は、この法律の制定につれ、その名も「公共職業安定所」と塗りかえられた」。(P124)『縁故』採用が支配的である社会では、「公共職業安定所」という近代的な通路は、いわば、トンネルにしかすぎないものとなる可能性を多分に持っている。表面は職安を通じている。けれどもそのまえに『縁故』のお膳立ては手ちがいなく終了」している。「あるいは、職安自身が、それの片棒をかつぐこととなる」。実際に、京浜・中京・京阪神・北九州の四代労働市場をみても、「求人の来る源は、規模別に見て、量的に三〇人未満の小企業で六三・三%となり圧倒的である。五〇〇人以上では、求人総数の一割にすぎない。」「要するに都市職安は、全労働市場の中の、きわめて片寄った一隅に座しており、そして全く半失業と考えられる職業の求人・求職の交換点に立って」いる。(P125~127)
 労働市場政策としての失業保険は昭和二十二年に制定されたが、この時期には、「徴用解除工」「「復員兵士」「引揚者」らが「インフレの過程で明日の食を求めはかない職業にやっとぶら下り終わっ」ていた。「不安定な職業とみじめな就労をそのまま放置し、それを雇傭の充分な形態と無理強いし、それからの解雇を保険で処理するという状態の下では」、失業保険は「不安定な雇傭を増す槓杆とさえなる。即ち資本はこれを利用して解雇を押しすすめる」。例えば、季節労務者の非保険金受給率が高く、「企業は低位賃金雇傭を更に失業保険でカバーしているのだ」。「現在の失業保険制度は、近代的な労働市場創設のためいわば何物をも果していないのである。失業保険のみで暮している人、そしてその保険金を貰って暮している中に職業を見つけてゆく人は、きわめて少ないのである。」(P128~131)
 支配の網の目の一つの表現『縁故』は、「窮乏化の体制の維持に役目をはたしていた」。「人たるに価する生活を営む権利を権利として規定されている現下において、保護請求者の負担をあらゆる遠隔の縁者を探ねてその方へ転化し、転嫁できぬ時は事実として保護は与えられず、子供を家族よりばらばらに引きはなし、一家離散の形で縁故のルートを通じ「強制」を以って縁者の下におくっていく」。労働への入口からして『縁故』による低賃金・低労働条件という負荷を掛けられ、貧困線上に浮上しかかると、『縁故』のぶら下りが重しとなる。「子供が職につき、楽になるべき」はずが、親が低賃金の「補充を請け負う」、逆に、低賃金であっても父や母を「扶養してゆかねばならぬ」。「全体として、収奪と搾取の二重三重の」「激しさ」。(P135)
 男性労働者が女性労働者を上回ったのは昭和7(1932)年で、昭和13(1938)年には62%となり、明治時代を逆転した。しかし、徴用工(臨時工)や通勤工(半農半工)などで男性労働者からも「半プロレタリアート」の刻印は消えない。(P151~152)
「大企業においては企業自身が労働者の教育に当り、いわゆる子飼いの労働者を養成」する。これが「縁故募集と結びついて、大企業労働者に一層「一家」的な意識を深めさせている」。(P158~159)「日本の機械工場の多くは修理工場として成立したので、作業が団体請負であり、作業内容がその都度変るので、永年の経験によってあらゆるケースに習熟することが必要となるのであり、ここに経験者の権威の基礎が存する」が、産業合理化の進展で、かなり変化してきている。「熟練労働の多くが、比較的単純な作業に分解し、機械工についていえば、いわゆる単能工が出現するに至った。彼等の間にはもはや古い職人的性格は極めて希薄であり、単純化され平均化された労働力の売り手としての、労働者たる面が著しく強くなっている。」(P162)「労働貴族」は本来熟練労働者の特権的地位を指したものであるが、日本では熟練工が社会的に形成されなかったので、その意味での「労働貴族」層は成立しなかった。」(P166)
「紡績工場の女子労働者は戦前から高等小学校卒が採用の一条件となっており、したがって、極貧農の子女は入社資格をもたなかった」。極貧農の子女は「製糸工場や織物工場に流れ、紡績工場には娘を高等小学に入れられる程度の貧農や中農下層の出身者が集ったのであり、この点は戦後さらに明確になり、比較的素養がよいということもあって、生活に余り困らない中農層の子女が歓迎されている。」「紡績工場はそれぞれ独自の募集基盤をもっているのであり」、「特定の数県から労働者を募集しているのである。このような地縁的関係を背景として職安と連絡員が活動しているのである。」(P172)「農家の過剰人口の中から流出して来る家計補助的な、嫁入前の一時的出稼労働者を基盤とし、これを高度の設備をもった工場で陶冶し、さらに資本が直接支配している寄宿舎において管理することによって形成される労働者―これが大企業の女子労働者の典型である。」(P174)
「労資関係が明確化し、社会的意識の成長した労働者は労働条件がより劣悪な中小企業において蓄積されずに、大企業の内で陶冶され蓄積されてきているのである。労働力として優秀な賃労働は、資本主義社会においては、階級としての労働者という点でも中核足らざるをえないのである。」(P175)しかし、「大企業においてさえ、階級としての労働者の世代的な蓄積は仲々行われないのであり、繰返し農村から新しい労働者が補給される」。「大企業自体も二代目の労働者を歓迎しない。」(P179~180)
 江戸時代末期には、幕府・藩の命令によって「築城その他の土木事業などに従事する人夫として農村から都市に集められてきた者の中には、年貢の強徴によって貧窮化した農村に帰ろうとせず、都市にとどまって浮浪遊民の徒となる者が多くなってきた。幕府はこれにたいし帰農を奨励する布令をたびたび出したが、その実績はあがらなかった。そして封建的支配者の寄生的消費都市の発達にともなって生ずる土木建築、運輸その他の事業のために人夫を供給する日傭座、日傭宿、口入屋などがこれらの浮浪遊民の徒を基盤にして設立された。この日傭座は座の特許権を有する夥長が封建的支配者によって任命され、日傭夫はこの夥長の鑑札を帯持しなければ仕事をしてはならないという封建的なギルド的組織であった。それは防火夫、脊負夫、肩担夫などあらゆる日傭夫を網羅し、一番組、二番組などというように日常は町火消をおこなう組という組織があって、組頭と日傭夫との間には親分子分関係があった。これらの夥長や組頭、親方が、不徹底なブルジョア民主主義革命におわった明治維新によって、主として資本家のための労務供給業者または請負業者となったのである。」(P221)「当初アメリカ占領軍は日本人労働者を雇傭するにあたって戦時中の労務報国会を利用した」。労務協会と改称したが、「労働ボスに労務供給業をおこなう恰好の場をあたえたことは明らか」だった。労務協会は昭和二十(1945年)年12月31日に解散させられ、「占領軍に労務を供給する責任は日雇勤労署に移された」が、この組織は「戦時中の国民勤労動員署」が改名したものでしかなかった。(P227)「半封建的な組制度=労働ボス制度は、戦後アメリカ占領軍当局と日本政府がこれを廃止する命令を出したとはいえ、実際上占領軍や政府自体によって利用され温存された」。また、「民間企業が日雇、臨時工を雇用する過程でも温存された。戦後の大量失業の中にあって」「民間企業の日雇労働を失業者に紹介できたのは、やはり勤労署よりもむしろ戦前から労務供給をおこなって民間企業に「顔」のきいている組の労働ボスであった。しかもこの労働ボスの中には当初労働組合労務供給のためにつくってこれを支配したものが少なくなかった。」(P229~230)1947年12月に職業安定法が施行され、3ヵ月後には組の自発的解散が予定されていたが、当然のように解散は進まないため、労働大臣は指示を出したが、その結果、一方では、「労働ボスまたはその手下が労働者とともに会社の直用となり、その中で労務供給や中間搾取」を続け、他方では、「労働ボスが組を会社という名前に変え、形式的に職安を通すだけで労務供給や中間搾取」を続けた。(P232)
アメリカ占領軍当局の「民主化」政策の一環として日本政府のおこなった労働基準法職業安定法による中間搾取、労務供給業の禁止は、かえって半封建的な組制度=労働ボス制度をいんぺいされたかたちで温存させたのである。しかも朝鮮戦争後は、経済軍事化の過程で、この半封建的な組制度が、日雇、臨時工において公然と復活されはじめた。これは根本的には、戦後アメリカ占領軍当局の指示に基く「農地改革」がかえって農民を零細な土地にしばりつけ、土地取上げを通じて地主または自作化した耕作地主の農民にたいする封建的支配を維持し、農業だけでは生活しえなくなった貧農または中農の次三男を都市に流失せしめたからであった。」(P236)
「農地改革は、日本の農地を半封建的な諸関係から解放し、農民の生活水準を高めるためといわれたのであったが、一部の地主はぼつ落し、中農層の生活水準を引上げる効果はあったにしても、基本的には農村における地主勢力は依然として強大であり、半封建的な生産並びに社会関係はなお強靭に残され、農地改革以降の諸々の政策はそれらを再編成したにとどまる。日本労働者の最大の供給源は今なお農村にあるが、厖大な貧農層は農地改革の過程を通じて拡大再生産せられ、低米価供出制度・シェーレの拡大等を通じて強化されている。これら農民の植民地的生活水準は、日本の労働賃銀ひいては労働者の生活水準を押し下げる基本的な要因の一つとなっている。農村には、戦前以上に潜在的過剰人口が停滞し、都市に対してたえず貧困な労働者層を送りこんでいるが、このような基盤が存在する限り、日本労働者の生活水準がヨーロッパ的水準に高められることはおこりえない」。(P292~293)「低賃金防止策の一つに他ならない法的最低賃銀の設定」へのサボタージュ、日本全体の賃金水準を低める重要な要因である「婦人労働者の極端な低賃銀」。(P294)
「労働者意識の特殊性格は、すべて日本の賃労働が、出稼ぎ型のそれであることに由来しているように思われる。農家経済と結び付いたさまざまな形態での出稼ぎ労働は、それが続いている限り、決して本来の鮮明な職業意識や職能意識を生み出すことはないであろうし、また、職業意識をおのれのうちに含みつつ、階級的立場にまでそれが高度化され、脱皮されて行くことも考ええないであろう。」(P331)

 

 大河内氏の著作からさらに5年程度進んだ状況を見ようとして、堀江正規著『日本の労働者階級』(1962年3月刊)を求めた。堀江氏の理論的立場は、大河内氏とは別のはずだ。
「一九六〇年の国勢調査で、日本の労働力人口中、「雇用労働者」の占める比重がはじめて五〇%をこえた」(一九五五年国勢調査では四二・八%)。51.3%となった。堀江氏は諸要因を増減して「近似的な数値」として妥当としている。(P3〜4)
 1959年5月に作成された雇用審議会「完全雇用に関する答申参考資料」に基づくと、「日本には約八〇〇万人の相対的過剰人口がある。これは国勢調査の「労働力人口」についていえば五人に一人以上、同じく「雇用労働者」についていえば二・六人に一人の割合である。」(P73〜75)
「明治初年の西欧工業の移植期には、日本には二つの労働時間の原型があったようにおもわれる。ひとつは在来の職人や工場制手工業からうけつがれてきた「七字出五字引」とか「日出から日没まで」というような自然日に順応する型であり、もうひとつは、官営工場や民間機械工業の一部にみられた西欧直輸入の八-九時間労働日である。」「この二つの原型は、たちまち支配的な意義をもたなくなる。」「紡績・製糸資本は」、「生産手段の二十四時間稼働への要求に結び」つけた。「戦前の日本では、工場法は保護職工(婦人・年少労働者)を、成人男子労働者以上の長時間労働-十一時間労働日、および十二時間二交代制の承認-で「保護」する破廉恥をおかすことになり、その影響のもとに、一般的な標準労働日もついに制定されることがなかった」。(P81〜83)
「日本農民の中心作物である水稲の反当たり収量は、一八八三年以後の六十年間に僅か五〇%の上昇にも達しなかった。」「農業生産を規定するこのような条件は、日本の農業人口の主要な構成部分である貧農層の生活を都市の勤労者をはるかに下廻る水準におとしいれた。」「日本の農家戸数の六五-七〇%は一ヘクタール(一町)以下の狭少な土地を耕していた。彼らは日本の農業生産を基本的にになう人々だが、彼らのうちのかなりの部分は、都市の要生活保護者と同様な生活をし、農閑期になればいろいろなひろい仕事に出かけ、娘や息子が成長すると、親だけの契約で、紡績、製糸、おりもの、たんこう、土工、売笑婦などに売りとばした。」「(農民出の労働者のすべてを「農家の家計補助的な出稼ぎ型」というひとつの型にはめこんでしまうことには疑問をもつが、-貧農のプロレタリア化、労働者階級への移行はやはり進行するから-鉄道、通信、鉱工業の諸部門などに、いわゆる「半農•半工」的な就業形態が存在しつづけたことの意味は、やはり小さいものではない。)」「農地改革以前の日本社会では、農民的な生活様式がー彼らの生活慣習と生活要求が、日本社会の中で大きな勢力をもっていた。とくに労働者は、この観点からいうと、しばしば「菜っ葉服の貧農」ではなかったか。」(P98〜101)
「日本資本主義の紡織部門の生産額が金属・機械両部門の合計額に追いこされるのは、日中戦争開始の直前である。(表44)そして、金属・機械労働者の総数が紡織労働者の総数を追いこすのも(表45)、製造工業における男子労働者数が女子労働者数を追いこすのも(表46)、日中戦争の開始によって、紡織部門の発展が頭打ちになった以後のことである。」
 戦前と戦後の明確な区別。①労働者階級の構成の変化:「労働者階級の社会的勢力とその影響力の増大は、一九六〇年の国勢調査で「雇用労働者」が史上はじめて労働力人口の五〇%をこえたことにしめされているが、その内部の質的な構成も著しく変っている。」「従来は労働者階級の外におかれていたような、技術的インテリゲンチァ、事務労働者などの一部を、資本が新しく導入した、拡大された総生産機構のなかで労働者階級の一部に合体させてしまう傾向をともなっている。」「労働者階級は生産過程の中で、ヨリ高い技術とヨリ激しい労働強度を要求されて、ヨリ高い生活様式に移らざるをえない」。「こうして、資本主義的生産の飛躍的な発展によって生みだされ、伝達される新しい生活様式がおそかれはやかれ、また多かれ少かれ、小生産者的・農村的な制約をのりこえて中小企業労働者や農民の世界にも浸透する。今では、労働者が「菜っ葉服の農民」なのではなく、逆に農民が「デニムのズボン」をはいている。」「新しい生活様式の普及が、そしてまたその社会的な強制が、現実的な生活水準・賃金水準の低位への強制を前提しながら、しかもいや応なしに拡大されることにある」。②労働者階級の労働力発達費の変化:「労働者とその家族構成員の教育費」。「子弟が義務教育だけで就業コースに入ってゆく場合と、男も女もすべて高校卒でなければ、事実上二代目の労働力になることができないという場合では、「家庭革命」といってよいほどの変化がおきることはあきらかである。」「新しい生活様式の浸透が、「弾力性のない支出」の競合を加速度化させている」。(P123〜132)
「日本の労働者階級が生活困難を幾分でも打開するための妥協的な方法として-さし当りすぐ目に見える範囲で-取り上げざるをえない諸形態は、超過勤務(および請負制度のもとでのノルマを超える労働)、連続出勤、休日出勤、そして最後的には借金である。」「超過労働が、むしろ労働者家族の家庭内からの「要求」であるかの観を呈するまでになっていることである。そして家庭内職・家庭菜園・子弟の新聞配達・新興宗教による生活指導等々が、労働者本人の勤労意欲の不足を「反省」させる。」(P137〜138)
 国鉄労働者の実態調査からの結論。「生活上の困難を、多少とも緩和するための、妥協的な」解決方法。「ひとつには、半農・半工」といわれた農家経済との抱合関係であり、ひとつには家族労働力の賃労働者化である」。(P148)
「日本資本主義にとっては、低賃金で利用できる広範な婦人労働が、なんといっても資本主義的搾取の広大な沃土になっている」。「資本の無制限の蓄積要求にささげられる低廉な婦人労働力は、農村と都市の窮乏化した勤労者家族のなかから「家計の圧力」によって排出される」。「婦人労働の増大」が「男子賃金の低下の方向に作用せざるをえない」。(P150〜152)だ。

 

 「日本の労働者階級」の現状については大河内グループと同一の見解だ、といえる。敗戦・占領でのある程度の社会改革を経て、サ条約下で独立し1960年まで「出稼ぎ型」労働の影響を引き摺っていたのなら、その後は大きな社会的変化は起きていないから、2020年に至っても労働諸関係に深く刻印されたままだと見るのが自然だ。
 さて、資本主義社会では生産手段の所有・非所有で社会的所属が大きく区分される。その一方が、生産手段を所有する資本家階級(ブルジョアジー)であり、他方が労働者階級(プロレタリアート)だ。従って、この区分では個人の意識は問題とされず、逆に、社会的所属が個人的意識を規定することになる。すると、私が抱いてきた欧米と日本との労働観の相違は、社会的所属の区分され方=労働者階級の創出にかかわる歴史的事情がそのまま表現されていることになる。日本の労働者関係における「出稼ぎ型」の刻印は非常に深いのだ。同様な意味では、米国における「人種と民族」が階級関係に深く複雑に影響しているといえる。