人畜無害の散流雑記

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領有権放棄 戦後秩序=サンフランシスコ同盟体制からの脱出

 23年春になり、体力・気力が復活してくると、次のテーマを設定したくなった。現在の日本を規定する最大の要因はサンフランシスコ体制だが、これまで日米安保との関係では見てきたものの、改めてサ体制そのものを検討する必要があろうと考えた。そこで以下の3冊を入手し読んだ。
 『サンフランシスコ平和条約の盲点-アジア太平洋地域の冷戦と「戦後未解決の諸問題」』原喜美恵・著 溪水社 2005年6月刊
 『戦後日本のアジア外交』宮城大蔵・編著 2015年6月刊(アジア外交史だった。)
 『サンフランシスコ講和と東アジア』川島真・細谷雄一編= 2021年3月刊(米英仏、中台・韓国・フィリピンの対応。全体としてサ体制肯定の立場。)
 本稿では、当時の情勢下でのサ条約・体制の形成過程を追った原氏の論考を紹介する。
 
  サンフランシスコ同盟体制
 「序章」では「冷戦」との関係から説き起こす。
「冷戦を構造面から議論する場合、欧米のそれはよく「ヤルタ体制」と表現された」(一九四五年二月、クリミア・ヤルタでの英米ソ首脳会談)。「これに対し、アジア太平洋の冷戦構造はしばしば「サンフランシスコ体制」と呼ばれた」。サンフランシスコ体制は「現在の日本の領域」に限定されず、「かつて日本が支配を広げた地域、即ち東アジア太平洋のほぼ全域にわたる冷戦体制であり、条約の起草者、特に米国の戦略利害と地域の政治的多様性を十分に反映したものであった」。(P13~14)
 西側同盟国の日本への対応は様々だったが、当時のほとんどの「アジア近隣諸国にとって最大の関心事は、地域の安全保障」だった。「一九五一年、米国は八月三〇日にフィリピンとの相互防衛条約、九月一日にオーストラリア、ニュージーランドとの三国間安全保障条約(ANZUS)に調印し、九月八日には対日平和条約と日米安全保障条約に調印」。さらに米国は「同様の二か国間安全保障同盟を一九五三年に韓国、一九五四年に台湾、一九六一年にタイとの間で締結している」。(P15~16)本稿作成者は、これらを総称して「サンフランシスコ同盟体制」と呼ぶことにする。
 サンフランシスコ平和条約の第二章「領域」、第二条の一部項を以下に示す。
 (a)日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対する全ての権利、権原及び請求権を放棄する。
 (b)日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
 (c)日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
 (f)日本国は、新南群島及び西沙諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

 この項目について著者は問題点を列挙する。(P24~25、29)
 ①日本による朝鮮の独立を承認しているが、どの政府又は国家に対して「権利、権原及び請求権を放棄」したのかは明記されていない。当時、「朝鮮」という名称を持つ国は存在せず、韓半島には、朝鮮民主主義人民共和国大韓民国が存在した。両国ともサ講和会議に招待されていない。
 ②竹島(独島)は、日本が放棄した「朝鮮」に含まれていたか、否か?
 ③台湾、南樺太・千島、南沙・西沙諸島についても、日本の領土放棄が規定されているが、相手国・政府が明記されていない。当時、中国本土には中華人民共和国、台湾には中華民国が存在し、西側同盟国間に統一見解はなかった。しかも、領土の範囲にも明確な定義がない。
 これらによって、日本と隣国との間で、竹島尖閣諸島北方領土の帰属が将来の係争となる余地を残した。一九四五年九月の終戦から6年、これらの懸案を討議する時間は十分にあり、情勢の変化と対応を経て、サ条約にたどり着いている。その6年間の懸案事項の討議の変遷を追ったのが本編だ。
 しかも、ご丁寧に、「平和条約第七章第二五条には、条約に「署名し且つこれを批准」しない、いずれの国に対しても「いかなる権利、権原又は利益も」授与されるものとみなしてはならない、と記されている。それ故、ソ連も中国も日本が放棄した領土について何の権利も取得しなかった」。(P24)
 
  ヤルタ構想とアジア
「ヤルタでの主な議題は、ドイツ、日本の戦後処理と国際連合の設立であり、三国間で数々の取り決めが交わされた。そこでは、ソ連の協力を重視したルーズベルトが、ソ連の意向を尊重した様々な妥協をしている」。「ルーズベルトは、ソ連軍がすでに東欧のほぼ全土を占領している事実を考えると、ソ連が東欧で影響力を持つことはやむをえないと考えていた。また、米国は当時、対日戦へのソ連参戦、ソ連を加えた国連の設立といったソ連の協力を必要とする課題を抱えていた。ヤルタでの妥協は、いわば「協力の代償」とみなすのが適当であろう。欧州については、ここでの取り決めが、その後の東欧の共産化や、東西ドイツ分断等、一連の東西緊張の変遷を経て、冷戦構造の基礎」となり、「一九七三年のヘルシンキ合意で国際的現状承認を得」る。(P32~33)
 一方、対日処理は、太平洋戦での役割・犠牲者数などのかかわり方の強さから米国主導となった。英国は自国植民地と、欧州同盟国の植民地への干渉を免れ、東南アジアでの優位を認められた。「ソ連は当時、まだ日本と交戦状態にはなかった。日本との中立条約を破棄させ、ソ連を対日参戦させるための条件として、南樺太と千島列島の割譲等、ソ連東北アジア利害享受に関する秘密協定が取り決められた」。(P33~34)「日本がポツダム宣言受諾を表明した時、ソ連軍は既に朝鮮、満州樺太の日本領に進撃を開始していたが、千島列島はまだ手付かずのままだった」。「スターリンは、八月十六日、ヤルタ協定通り全千島列島をソ連軍の占領下に置くべきであるとし、さらに北海道の北半分も要求している。これに対し、トルーマンソ連による千島占領は承諾したが、北海道北半分については拒否する」。「スターリンの注意が千島列島に向いている間、朝鮮半島についてはソ連の単独占領は阻止されていた」。「米国は千島列島を交渉のカードとして利用したのである」。(P36)
 中華人民共和国の成立、朝鮮戦争勃発で、米の対日占領政策は激変する。「日本は米国のアジア戦略において中心的地位を与えられ、対日平和の方針は「厳粛」から「寛容」へと変わる。日本の経済復興と親米政権の樹立が、米国の占領政策の第一目標となり、平和条約の起草は、明確な米国政策が構築されるまで延期された」。(P71)
 こうして日本は、アジアにおける反共防波堤、政治的軍事的不沈空母の役割を担い果たすようになる。
 アジアでの冷戦体制では、千島列島・竹島尖閣諸島の領土問題はノドに刺さる小骨のようでいて、日ロ中韓を連帯させない歯止めとしての役割を担って来たといえる。サ体制の下では解決できないのだ。この枠組みを脱する方向が領土問題を解決し、アジアでの政治的経済的軍事的分断を解消することへつながっていくのだろう。
 
  領土問題解決=歯舞・色丹2島返還、尖閣竹島放棄でサ体制から脱する一歩を
 千島問題について著者は、平和条約交渉の準備として作成された一九四六年十一月作成の外務省英文調書に「国後・択捉が千島列島の一部として扱われている」と指摘している。(P122~124)豪公文書館で発見されたもので、日本政府は非公開だ。そういえば、安倍元首相が切り札として「二島返還」での手打ちを探っていたようだが、それが本筋なのだろう。
 米国主導でのアジア冷戦構想を実現しているサ体制を脱するためには、千島の二島返還、竹島尖閣列島の帰属権放棄で隣国との関係を大胆に改善し、覇権を求めない平和国家日本の姿を示すことが、アジア各国からの支持を獲得する道だろう。そのことがアジアの安定の基礎の一つとなる。
 現在進行中のウクライナ侵略・アジア冷戦再編は、ヤルタ体制・サ体制へのロシア側からの挑戦でもある。第二次世界大戦後の秩序を書き換えようとしている。核を使って日本を対米従属化に置いた歴史を見習って、ウクライナをロシア圏にとどまらせるか、またはクリミア半島・南部諸州を分割統治しようとしている。ロシアが核を使うかもと欧米が本気で恐れているのは、そのためだろう。米の核使用は国際的国内的に批判されてこなかった。国連常任理事国が自らの行動を律しきれない・国連自体にそれを止める手段がない、という現状では国連改革も待ったなしだ。
 戦後70年、世界は新たな国際協調、平和と安定を作り出す方向を探している。多極化もその一つであり、アフリカ・南アメリカ・アジアの国々の動向が注視される所以だ。悲劇の前に解決できるのか、悲劇が繰り返されるのか、まだ、方向性は見えていない。だからこそ、日本の領土問題提起は新しい視点に立った歴史問題解決への糸口となるだろう。