人畜無害の散流雑記

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「個人の尊厳・尊重」が日本の革新運動の重要な潮流に

 今回は読後感から。書名に惹かれて入手した、『戦後左翼はなぜ解体したのか 変革主体再生への展望を探る』寺岡衛著・江藤正修編 同時代社 2006年1月刊。
 著者は、1935年生まれ、1954年に立命館大入学、同時に日本共産党に入党し山村工作隊に参加。その後、全学連運動に加わる中で、1956年のスターリン批判に直面し、1958年に第四インターナショナル日本支部(準)関西ビューローのメンバーになる。その後も、関東・関西で活動を続け、中央委員・政治局員の任を担っている。本書は、「第四インターナショナル日本支部を切り口とした労働運動を含む戦後左翼全般の総括」だが、いたずらな他組織批判や自己合理化はまったく感じられず、独特の問題意識の持ち方に鋭さと新鮮さを感じた。以下、内容紹介。

「戦後革新の土台であった日本的な抵抗基盤は」「前近代的な共同体、職人的な秩序が前提となっていた」。「丁稚奉公に始まる年功序列や職人共同体は、自らの労働と生産・経営を一対のものとして年功的な職能的技能力を保持してきた」。「明治政府が成立すると」「上からの資本蓄積が国家による産業育成として推進され、政商型の政治と経済が癒着した構造からは財閥が生まれる」。この二つの要素は、「第二次世界戦争に向けた軍需生産を中心とする総力戦体制が整えられていく過程で」合体していく。「上から形成された大財閥が巨大工場を軸に軍需生産の中心として機能しつつ、伝統的構造として存在してきた工業や商業、特に町工場で蓄積されてきた技術が大工場の中に徴用工として総動員されていった。徴兵を免除された徴用工は、軍需生産を支え発展させるためにその熟練した労働力を提供した」のだ。(P36~37)
 この戦争遂行機能は、「戦後占領期にとられた石炭と鉄鋼の生産に重点を置いた経済復興政策、すなわち傾斜生産方式の過程で新しく秩序化されていった。年功序列、終身雇用、下請け・孫請けの系列化、グループ企業とメインバンク制、護送船団方式、談合など日本株式会社といわれるシステムは、歴史的にはそのように作られてきた」。「朝鮮戦争を媒介にして作られた戦後革新勢力(社会党・総評ブロック)の物質的基盤もまた、こうした「新しい秩序化」の一環であった。下から蓄積された技術的能力に基づく熟練労働力は、朝鮮戦争特需による増産のために資本が必要とする労働力となり、待遇改善などの資本との交渉において力を発揮した」。(P37~38)
「職場における伝統的な職人的能力を基盤とする労働組合が多数派を形成し、これが一九六〇年代まで総評左派の構造を作り出していく」。「六〇年以降はJC派が台頭し、民同左派は長期的な衰退の過程に入る」。
   ※JC派=IMF・JC(国際金属労連日本協議会)。
   ※民同=「民主化同盟」の略。
 戦後の日本資本主義再建過程では、「一つには天皇制を維持することで社会秩序の精神的支柱を確保し」、「もう一つは行政的、組織的な意味で戦前官僚システムの連続性を維持して政治的経済的秩序を確保する」ことで、「戦前からの連続性を保持」した。アメリカの占領政策が「民主化から反共へ」と進行すると、戦前からの党人派政治家では国家機能が発揮しきれないため、行政官僚が一斉に国会に進出し政治官僚となり(吉田学校)、政官の分業が始まる。また、旧財閥の解体により、安定株主が企業機関へと転化することで、サラリーマン経営者が生まれるが、これは明らかに資本家ではなく、「企業の私的官僚」だ。ここに、行政・政治・企業間の三位一体エリート官僚グループが形成され、それは、東大法学部の上位成績卒業者で占められる学閥でもあった。(P45~47)朝鮮特需を経て、五五年体制を成立させることになる。
 五五年体制下で、産業構造の転換が行政指導という名の下で三位一体官僚によって実施されていく。技術革新による労働生産性の上昇が右肩上がりの賃金上昇を可能にし、可処分所得が増加した。大衆的な豊かさの創造は、生産性向上・利益の分配めざす「労使一体化」を構造化した。職員・工員という区別がなくなり、誰もが能力に応じて出世できる仕組みとなり、企業に対する忠誠心に基づく企業内共同体が成立する。その反面、旧来の職人共同体が持っていた企業からの独立性は全面的に解体された。(P49~51)
「旧来的共同体を基盤とする民同労働運動は、技能を若年労働者に教え込む親方でもある熟練工が職場の共同体を代表して企業と交渉し、職場の利害を代弁して資本と闘い、取引をする存在であった。ところが、JC派が成立して以降は、企業のエリートでもある労働組合の幹部はむしろ企業の代表としてその意向を代弁し、それが職場に下達される構造になった」。(P51)
 日本の場合、高度成長の中で「春闘」も一定の役割を果たしたが、それはJC派の拠点である鉄鋼・造船・電機で賃上げ交渉を先行し、私鉄と公労協がストを構えてそれを追うことで、賃上げ基準を「相場」として獲得し、未組織労働者にも波及させるという構造だった。JC派と官公労(民同左派)による共同行動だったと言える。しかし、この構造は、70年代以降のニクソンショックオイルショックで破綻する。JC派は「賃上げ自粛・減量経営容認」で企業防衛策に乗った。官公労は、スト権獲得を軸としたヨーロッパ型労働運動への前進をめざしたが、官公労運動自体の弱点=熟練労働者のヘゲモニーによる現場協議制による「黙契」の獲得=慣習・慣行がヤミ・カラ手当攻撃で突かれ、挫折する。(P54~56)
「戦後日本はなお前近代的で自己完結的な共同体国家であり、労働組合前近代的共同体を基礎としていた」。「象徴天皇制や政官財の三角陣地の機能不全、民同労働運動と社会党の崩壊などに示される状況は、戦後日本が継承した前近代的要素の崩壊」だ。(P78)
 1968~70年に象徴される市民・学生運動を「市民革命の第二段階として評価」しよう。それは、「社会的主体としての大衆的自己決定権や直接的民主主義に基づく自立、自治を求める対抗社会として、政治国家や市場経済を逆にコントロールする主体へと発展する可能性を強めている」。「我々がめざす社会主義革命は、今日始まっている第二の市民革命(市民社会)の発展過程と重なって準備されているものとして評価する必要が」ある。「その前提となるのが、第一期市民社会で長期にわたって蓄積された〝自立した個人"の存在」なのだ。「日本の場合は、個人としての自立が脆弱」だ。「日本での闘いは、前期市民社会と後期市民社会を同時に実現しなければならない」。しかし、「個人的自立さえ脆弱な主体を基礎とした上で、自立した潮流をどのように作り」出せるのかという「戸惑いが、現在の運動の中に存在する」。(P79~80)
構造改革派には天皇制をボナパルティズム論(マルクスの『ルイ・ボナパルトとプリュメール一八日』参照)として認識し、戦後史をとらえる観点が欠けていた」。「明治維新を契機として成立した近代国家や富国強兵は、大衆を王政復古の意識で動員している。歴史的にはより古い天皇制の伝統で国家統合がなされ、それがエネルギーとなって富国強兵や近代産業の基盤を形作っていった」。「このように日本における近代化は、自動的に近代的な国民によって支えられているという機械的な関係ではない。ある構造の下での近代的国家や近代的工業化を、反動的意識で支えた国家が日本であり、それは総動員体制にまで貫徹されていた。第二次世界大戦における軍事産業で成立した総動員体制は、天皇軍国主義に基づく忠誠心が大衆意識の根幹を支えていたのである」。「このように物質的、経済的近代化、あるいは国家的近代化は、同時に反動的意識の動員によって統合され、それが活力となって展開される。これが、いわば日本的天皇ボナパルティズムの構造である」。(P177~178)
「後期資本主義の矛盾の新しいあり方に対応した社会的ヘゲモニーとして、労働運動が機能しうるのか否かの問題である。それは対抗社会に向けたヘゲモニーとして、労働者の闘いを再形成することであり、生活者としての自立と生産者としての自立した闘いとの結合である」。(P226


 労働組合運動・マルクス主義諸政党・諸派の動向総括もあるが省略する。内容的には興味深いが、本稿の問題意識とは異なるからだ。
 
 ●幾つかの感想
1.「日本的天皇ボナパルティズム」とは、私が辿り着いた「総体的奴隷制」にほかならない。だからといって、第四インターへの賛否を云々するのではない。「社会主義への日本の道」を模索する者の眼には、「現代日本に封建遺制が根強く残っている」という認識で一致しうる、と感じるのだ。
2.1955年以降の労働運動の推移は、ホブズボームの分析とも一致する。日本の場合には、朝鮮戦争が推進力になっていそうだ。
3.今後の政治革新運動の担い手を「自立した個人」に求めているのも共感できる。というよりも、「階級としての労働者」は分散したため、資本主義権力に民主主義的に対抗するには、「自立した個人の潮流」に求めざるを得ないのだ。実際、世界各国ですでにスマホによる呼び掛けに呼応してのデモは権力への対抗手段となって現れている。ただし、それらの結集の軸が報道されることは少ない。現代における「抵抗組織のあり方=ヘゲモニー勢力」は別途考える必要がある。
4.「自立した個人」というキーワードで、私の思考は広がった。戦前の「赤紙」召集、戦没者(遺骨・遺品)の戦場放棄、市民への戦災補償、従軍慰安婦対応、朝鮮半島・大陸出身者の国籍変更・責任放棄、被爆・公害・医療過誤患者への悉皆調査拒否、不平等参政権、選挙運動への制約、三権不分立、LGBT、いじめ、忖度など、すべてが「個人の尊厳・尊重」に反することばかりだ。まずは、「個人の尊厳」の確立こそが、現代・近未来の焦点だろう。そのためには、公的審議会の公開、SNSなどでの匿名禁止、事件・災害被害者の個人名公開が必須になる。プライバシーとは、「個人の尊厳」を確立するためにある。姓名の公開は「個人」の生きた証であり、生きている印でもある。
5.4の補足。従軍慰安婦問題の自分の論理的捉え方に不十分さを感じていたが、「個人の尊厳・尊重」を軸に据えたとき、すんなりと胸に落ちた。「国と国との戦後補償・外交交渉」と「国と個人」との関係はまったく別の概念であり、帝国日本が、「天皇の赤子」として赤紙一枚で招集した兵卒をアジア各国に送りこんで死亡させ、遺骨・遺品はおろか死亡場所も死因も明らかにしないまま、現在に至っているのと同じ思想が生き残っているのだ。現在の日本政府の対応や国民の諸事件への反応も戦前とそう変わっていない。COVIT‐19に関しても、感染者を明らかにしないことの方に比重がかかっている。「世間からの非難」を避けるために個人は隠されるのだ。記憶に定かではないが、米の地方紙では、COVIT-19死亡者名簿を報道したそうだ。そこに、個人の生きた跡を残そうとする意志を見る。それは、相模原の障碍者殺傷事件でも感じたことだった。裁判に際して、被害者の個人名を明らかにした保護者がいたが、そのことで被害者の具体的な生きた姿が浮かんだ。
 「個人の尊厳・尊重」はある意味で「世間」からの厳しい視線を感じさせることになるだろうが、それを経験し、「世間」の側が克服していくことが「社会を変える」ということになるのだ。