人畜無害の散流雑記

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「労働」の日本的形態考・その1 「出稼ぎ型」

 現在の私の問題意識は、「北欧社民的」労働観と「日本的」労働観との質的差異とその歴史的理由にあるが、労働運動と労働観とはそれなりに関連があろうと考え、大河内一男著『黎明期の日本労働運動』(岩波新書・1952年10月刊)を購読した。

  ●「出稼ぎ型」労働の規定
 著者は「はしがき」で言う(以下、旧字は新字体に改める)。「本書は明治時代における労働運動の成立と発展とその解体とを書綴った。」「この時代の労働運動を形作っている要因やそのたどった運命は、そのまま大正以降今日に至るまでの労働運動を制約し、それに一つの型を与えている。その意味で、戦後の労働運動を理解するための有力な手がかりとして、明治時代の労働運動の訓えるものを振りかえってみる必要がある。」
 「序章 日本の社会と日本の労働」に本書の要旨は叙述されている。
「いま日本における賃労働の型を便宜上「出稼型」と呼んでおこう。これは言葉の狭い意味での出稼人を意味するものではなく、賃労働の提供者が、全体として、農家経済と結びついた出稼労働者的性格をもっている、ということである。」「日本の賃金労働者の圧倒的部分を占める女子労働者=「工女」たち」は、「貧農の娘たちであり」「親元の農家の窮迫した家計を補充する意味で、二年または三年の年期をもって」「嫁入りまでの一定期間を、遠隔の工場へ、それも主として綿糸紡績、織物、生糸工場などへ、出稼労働者として流出する。」「定められた契約期間が満了すれば、彼女たちは例外なしに郷里へもどり、そこで結婚し、農家の主婦としての生活がはじまる。そこからが彼女たちにとっては、本当の生涯なのである。」「男子労働者の中心である工場、鉱山、交通、その他の賃労働についていえば、彼らの大部分は農村における過剰人口の流出部分からなっており、所謂「次三男」がその中枢を占めている。」「好景気の時は農村から流失して工場地帯や鉱山に職を求め、不況に遭遇して職場を喪って再び農村に帰還する。」彼らは、「農民として農村にいるのではなく失業者として農村に寄食するのである。」「景気の上昇下降につれて、次三男によって表現される農村の過剰人口は、不断に流出流入を繰りかえすのであって、」「日本の農村は、過剰人口や失業人口に対する無限の深さをもつ貯水池のような役割をつくして来たといってよい。」男子労働者の場合は、「工場地帯で比較的安定した雇用のチャンスを掴まえようとし」「幸運な部類は比較的早く目的地のどこかへ橋頭保を築き、一家を構え、都会居住者としての生活をはじめる。」(P4~5)
「日華事変(※日中戦争、1937年7月7日盧溝橋事件に始まった。)以後における戦時経済の急速な展開は、農家経済を全体として、軍需産業の生産拡充の中へ巻き込んでしまった。京浜地区や京阪神地区のような巨大な旧工場地帯の生産拡充だけでは足らず、戦時中の巨大工場は、労働力の調達その他の立地条件から、多くは地方とりわけ農村に建設され、数年ならずして、いくつもの巨大な新興工場都市が出現した。」「賃労働は、工場の周辺何キロかの農村から、通勤工として調達された。」「農村における多数の過剰人口は、農家経済とその家計の中に依然として根を下したまま、しかも極めて容易に賃労働としての外貌を呈するようになる。彼らはしばしば「半農半工」などと呼ばれ、また農家経済に重点をおいて「職工農家」などと呼ばれた。」「彼らの賃金労働者としての再生産が農家経済から切り」離されなかった。これも、「出稼型労働の一亜種であり、とりわけその戦時型であると考えてよい。」(P5~6)
「イギリスの場合には、近世初頭から、十八世紀の後半に至って産業革命の幕が切っておとされる頃までに、零細農民は最終的に、一家をあげて、農村から流出してしまっている。」「「農民離村」はやがて工場地帯における賃金労働者の結集であり、賃金労働者の定着と蓄積とであった。」「数代を経て、次第に工場地帯における所謂近代的「労働人口」なるものが、比較的安定した定着性のある社会層として蓄積されてゆき、またそれは代々再生産されていく。このような場合に、はじめて、産業革命の鉄火をくぐりながら、近代的な労働階級が、ひとつのまとまりのある社会層として、また強靭な組織や階級意識をもつ社会層として、つくり上げられてゆくのである。」(P7~8)
 日本の場合には、「所謂「農民離村」が本源的に遂行されないままに商品経済の中に巻き込まれざるを得なかった農家経済は、その窮迫と過剰人口の圧力から脱れる手段として、ひとつには全国の農村に拡がった農家の副業による現金収入に、またひとつには、ここで問題となる農家経済の中からの、さまざまな形での出稼労働者の送出に、血路が求められた。従って日本の賃金労働は、男子女子を通じて、農家経済の中からつくり出され、一定期間賃金労働者として活動し、再び旧の農家経済の中に還流する。」「工場地帯における定住性や定着性は、日本では、著しく希薄なものになり、工場地帯に住みついて、そこで労働者家族として再生産され、その地帯における労働条件や賃金や住宅やが、彼らの生存のただ一つの支柱であるというような労働人口が、安定した社会層としてつくり出され得ないのである。農村と工場地帯との間には、人間のはげしい流動性がみられるばかりでなく、重要なことは、この場合には、精神的にも流動性が高い、ということである。その日その日の賃金だけが一家を何人かを抱えた労働者の唯一の収入で、それ以外に鐚一文の副収入もなく、また、まさかの場合の逃げ込み場所や寄生の日常でもない、といったような都市プロレタリアは存在しない。賃金一本を頼りに工場地帯で背水の陣を布くのではなく、日本の労働者の場合には、農家経済や出身農村への還流や、それへの直接間接の経済的依存が、彼らの生活全体に特殊な色調を与えている。このような、出稼型労働に負わされた著しい特徴が、日本における賃金労働者の「低賃金」やその他一切の労働条件を、労働市場の形態を、労働組合その他の労働者組織の型を、そして特殊な労働者意識やその「エートス」を、総じて明治以来八十年をつうずる労働問題の一切を、その日本型を、つくり上げてしまったのである。」(P9~10)
 「低賃金」とは、外国に比較して「低い」という意味だけではない。「近代資本主義における賃金の本来の内容、すなわち労働者家族の再生産費用の保障という意味での賃金ではなく、ただ僅かにひと握りの生活補給金、または家計補充的賃金にすぎない。」「労働力は商品化しておりながら、それが出稼型的な制約を受けているために、対価たる賃金は、近代的な範疇として成立し得ない。」(P10~11)
「労働者がその出身の農村から最終的に放逐されないで、農家経済の中にいわば片足を突っ込んだまま賃労働者化し、また産業の発展につれて都市における定住人口が増加した場合にも、工場地帯における本来の蓄積分が比較的希薄であり、景気の変動に伴ってやがては出身農村に還流し、農村における滞留人口を形成するのであるから、期間の長短はあり、また出稼距離はさまざまであっても、定着した「労働人口」の蓄積や再生産は存在しない、ということになる」。これは「統一的な労働市場の成立を妨げている根本的な理由」でもある。「労働市場で労働力が合理的な仕方で募集され調達されるのではなく、すべて個人的な「縁故」をたどって行われることになるが、そのことは、自ら労働条件を低め、労資関係を身分的雰囲気の中におしこめる端緒ともなり、また労務の調達における頭はね制度やボス制度の介入の原因ともなる。」「労働市場が形成されなければ、労働条件もまた縦に寸断され、同一職種についての労働条件や待遇すらも、企業の異るにつれて異ることになる。」(P11~12)
「統一的な労働市場が形成され難いという事情は、労働条件の統一化やその引上げを目的とする労働者組織の発展を阻害する。労資関係が「委託」や「縁故」で結ばれるかぎり、企業間における労働条件の凹凸は容易に解消しないし、従って、労働組合の結成や活動は、個別企業を超えた横断的なものに伸びないで、精々企業別にしか作られないことになる。日本で「企業別組合」が圧倒的な比重を占めている秘密はここにひそんでいる。」「労働組合組織は、資本主義産業の発展に伴って、同種職業間の横断的組織として個々の企業の枠を超えた大衆組織として横断的に発達するものである」。職業別の労働市場ができ上がることで、「賃労働と言う商品は、はじめてその適正な価格で集団的に取引することができ、労働組合は、その集団的な売手の組織として、労働市場をコントロールすることができるようになる」。(P14~15)
「日本の場合には、労働組合の基本単位は企業別・資本別・経営別にでき上がり、職業別の横断組織としての組合は存在せず、労働組合は、経営体の外部の労働市場とは無関係に、経営の中に閉じ込められている。だから日本の組合は、経営内的存在という色彩が強烈であると同時に、他面では、職業別の横断組織を飛び超えて全国的連合体として階級的組織の立場で闘争を開始する。」(P16)
 工場地帯に定着=定住する安定した「労働人口」が存在しない日本の場合には、「流動性の高い出稼型の労働者や半農半工的通勤工や、都市における浮浪層の堆積は、労働運動を、労働条件の漸次的な改善や合法的議会主義に結びつけないで、つねに無政府主義的な夢想やサンジカリズム的な実力行動に押し流してしまう。明治から大正へかけて、総じて大戦前の日本においては、短期出稼の女子労働者は、殆ど一貫して無知と無自覚のうちに、個別資本への身分的隷属のうちに埋没し、ただ僅かに重工業=軍事的鍵産業の内部に結集された少数の男子労働者だけが、労働組合を結成することになったが、それもやがて一部の急進分子の騒擾的活動のうちに壊滅してしまった。圧倒的多数の女子労働者=「工女」の無知と少数の先端的男子労働者の急進的意識との奇妙な組み合わせ、そこに、戦前における日本の労働者意識の特殊性があった。」(P17~18)
 以下、大河内氏は歴史的・具体的な活動を叙述していくが、その結論は、「労働階級がまだ職業別組合をつくる気力や自覚もないのに、社会主義イデオロギーは、大衆からはなれて、一部の職業的煽動家や知識層の所有になって、ますます観念化し、自由に、思う存分急進的になった。」(P191)そして、1910(明治43)年夏には「大逆事件」が起こされた。左派幹部は「赤旗事件」(1908年)で下獄中、幸徳は孤立状態だった。「当局の弾圧ぶりが左派の急進分子を著しく刺激したこと」、また「何らかの機会に「無政府共産」を信ずるものを一挙に掃討しようと政府が待機していたこと」が、事件発生の有力な動機だった。(P196)「多数の地方同志が一挙にこの事件の中にまき込まれてしまったことは、、その後の社会運動を窒息せしめるのに役立った」。(P199)1911年1月18日、12名の死刑と12名の無期懲役を判決。
社会主義者または「主義者」は、それこそ不逞の徒輩として世間から取扱われた。明治末期においては、それはもはや恐怖の対象ではなく、蔑視の対象であり嘲笑の対象であった。」(P212)
「労働問題が合理的な形で適時に処理されず、常に警察的弾圧によって支配階級の既得利益を擁護しようとする結果、問題は常に鬱積され広汎な社会問題として改めて一層深刻な形で解決を逼るようになる。」「労働問題は、狭義の労働立法という形においてはもちろん、社会立法としてもほとんど手がつけられぬままに、日本は早くも植民地帝国への膨張政策をひたむきに強行するようになる。」(P220~221)
「巨大紡績工場における福利施設、巨大軍需工場における共済組合は、一面で、「原生的労働関係」における労働力の食潰しと磨滅に対する恐怖によって促され、また他面では、社会主義イデオロギーの浸潤を防圧しようとする意図によって鼓舞せらたものであった。」「これらの施設によって、労働時間や労働賃金を根幹とする労働条件の原生的形態が排棄されたわけではなく、むしろこれらの低劣さを固定化した代償物と考えられ、社会政策立法の実施をサボタージュする良き理由としてしばしば経営者側によって利用せられた」。「これらの施設の発展に伴って、労働組合の組織は、意識無意識のうちに、いよいよ経営から排除されていった。」(P203)
 工場労働者総数=1896(明治29)年:43万4832、1900(同33)年:42万2019、1905(同38)年:58万7851、1910(同43)年:71万7161、1912(大正元)年:86万3447。(P204~205)
  ※日本の総人口は、1896年:4199万2千人、1912年:5057万7千人(インターネット「帝国書院」統計資料)、従って、工場労働者比率は1.04%、1.71%だった。
 
  ●「出稼ぎ型」労働概念をめぐって
 大河内一男氏の「出稼型」労働論の土台には、「日本では労働者は存在しても、労働者階級としては未成立だ」という歴史認識がある。英仏などでは資本主義化への道程が長く、エンクロージャー(15世紀末~19世紀初)などで農民の「挙家離村」が促進され、都市に流入・貧民化し、福祉の対象となるところから始まって、やがて「労働力以外の何物も持たない」階級としての労働者が意識され組織化されていく。日本では、この過程が存在せず、農村と切り離されないまま、「余剰労働力」「生活費補助労働力」として活用された。従って、好不況で農村との出入りを繰り返すことのできる「経済の調節弁」となった。この構造は敗戦後も引き継がれ、現在に至っていると言ってよい。すると、問題は、農村人口が急減し、賃金労働者が国民の多数になった時期に「労働者階級」が存在したのかどうか、ということになる。労働者は存在しても「階級」としては組織されていない、という状況はあり得るからだ。そもそも「階級としての労働者」についても検討する必要がある。
 そんなことを考えながら、ネットで「出稼型労働」を検索したら、幾つかのPDF論文がヒットした。以下、発表年が古いと推定した順に要約する。
 
 「所謂「出稼型」労働について―労働運動に関する大河内理論批判」栢野晴夫 「社会労働研究」1955年11月
 大河内理論批判はやはりすぐに出ていた。その主要点は、①「出稼」を農民層分解の視点から扱っていない=農村プロレタリアート・半プロレタリアートの持つ革命的エネルギーを正当に評価していない、そのエネルギーを発揮できる条件をこそ検討すべきだ、②大河内理論では、日本に近代的賃金労働者が存在しないことになる、に絞られる。
 ②が基本的論点だという点で、私とは共通している。ただし、この小論では、「日本に労働者階級が存在した」とは論証されていない。

 「農業政策の破綻と出稼ぎ」林信彰 1975年頃
 1960年以降の高度成長期での出稼ぎの特徴。
①「農家就業動向調査」などによると、出稼ぎ農民数は、1960年に17万人、東京五輪前年63年に38万人、米の生産調整が始まった70年の翌71年に34万人。実数は倍以上との見方もある。
②71年の34万人のうち96%が男性、また世帯主59%、後継者29%。年齢も当然あがり、男性の67%は35歳以上。35歳以上は、58年21%、61年30%。
③全出稼ぎ者中の経営耕地面積1.5ha以上の農家の比率は、58年8%、62年15.3%、71年26%と、上層農家へ広がっている。
④出稼ぎ給源地の限定化。秋田33.7%、青森32.9%、山形29.8%。全体では、東北53.4%、九州16.5%。
⑤出稼ぎ期間の長期化。71年には4ヵ月以上が78.6%、6ヵ月以上でも32%になる。
⑥建設業が多く、71年には64.5%。
⑦72年5月の調査では、出稼ぎ者の64%には継続希望がある。
 歴史的経過。
「戦後、農村は都会からの帰農者、海外からの引揚げ者を多数かかえこんだが、朝鮮動乱に端を発する都市の労働需要の高まりのなかで、帰農者の多くは都会へ還流し、農村からの季節出稼ぎは、戦前タイプのものが縮少された形でつづけられた。米単作地帯であっても、冬期にはさまざまな農作業があり、副業収入もあったために、一家の中心的な労働力が出稼ぎに出ることはあり得なかった。」
 1955年以降の「エネルギー革命」「流通革命」「消費革命」で炭焼き・藁工芸品の市場が消え、零細農家が出稼ぎに出る。中堅農家は、政府の推進する「農業経営多角化・複合化」政策で、乳牛・肉牛・養豚・養鶏・果樹などに取り組んだ。
 1960年以降の貿易自由化で農産物価格は低下、競争のための機械購入で家計が圧迫された。61年の農業基本法は、経営規模拡大・生産性向上を目指したが、農村では兼業化に傾斜した。稲作技術は工業化され、機械力・化学肥料・農薬で日曜百姓が可能になった。63年以降、中堅農家も出稼ぎに傾斜した。70年以降の総合農政=「生産調整」「米価据え置き」で、大規模農家も出稼ぎに出、零細農家は安定兼業化した。
  ※出稼ぎは、労働問題だけでなく農民問題でもある。日本の生産力の根底に関わっている。
 
 「労働市場の需要側からみた大正中期から昭和初期における出稼ぎ労働の特質―その予備的考察」松田松男 1980年頃?
 出稼ぎの歴史的時期=①江戸中期以降の地主手作り経営の崩壊により、奉公人層が手元から解放されるもの、②明治から昭和初期に至る出生数の急増が地主制の下にある農・山村過剰人口の堆積を生み、二・三男、娘といった家計補助的労働力のはけ口となるもの、③戦後の経済における高度成長期において、建設業を主とする労働力需要の喚起によるもの。
 「日本型労働市場」は第一次世界大戦終結を転機として成立する。それに対応し、農村労働力の流出形態も「出稼ぎ型」から「離村定着型」に移行する。
 
 「「出稼ぎ」研究の理論的前提―当事者の論理と社会的性格の検討を通じて」矢野晋吾 「日本労働社会学会年報第11号・2000年」
 高度経済成長期まで盛んだった「伝統的出稼ぎ」。「出稼ぎ」に本人も周囲も抵抗なく自発的に出る。「賃労働型出稼ぎ」との違い。「伝統的出稼ぎ」の特徴は、母村や「出稼ぎ」先との緊密な社会関係にある。通過儀礼的あるいは年齢階梯的な意味もある。
 
 「高度成長期の労働移動―移動インフラとしての職業安定所・学校」攝津斉彦 「日本労働研究誌」2013年5月
「1955年から1973年にかけて生じた高度経済成長によって、日本の労働力には二つの大きな変化が生じた。ひとつは労働力の産業構成の変化である。「民族大移動」とも形容される都市部への激しい人口流入と、農業から非農業への急激な労働力の移動が同時に生じたところに、高度経済成長の一つの特徴がある」。①拡大した労働需要を賄い、②流入世帯が耐久消費材需要を生み、③地域間経済格差を縮小させた。
 全国の就業者に占める、第一次産業農林水産業)従事者の比率は、1955年に38%、1965年に23%、1975年に13%。戦前の水準:有業者に占める第一次産業有業者数は、1906年に62%、1920年に54%、1930年に50%、1940年に44%。
 日本の職業紹介事業は、口入屋・桂庵などの呼称で古くから存在し、明治以降の工業化で重要視されたが、やがて人身拘束などの不正行為が問題となる。1911年の工場法制定後、公営の職業紹介が模索され、東京・大阪両市に公営職業紹介所が設置された。第一大戦後の恐慌を受けて、1921年には職業紹介法が制定され、市町村営職業紹介所の設立と中央職業紹介所に統轄させようとしたが、広がらなかった。1927年には営利職業紹介事業取締規則が施行されると、公営職業紹介所が伸長し、公民営の棲み分けが成立した。国家総動員の名目下、1938年に職業紹介法が改正され、職業紹介事業は国営化された。1930年頃までの民営紹介は公営より高効率のマッチングを示していた。①求人側との長期的関係があり、求人情報を蓄積していた、②求職者の身元調査を実施した、③求職者と求人側との情報伝達を促進した、④就職後に問題が生じた際には仲介するなど雇用関係にも影響力があった。
 企業側から見る。官営八幡製鉄所の史料では、ホワイトカラー(事務職員・技術者層)は、1900年以前は旧士族が諸職・職場を流動していたが、それ以降、1880年代に教育された平民が台頭し、1901年には新規採用者の学歴目安が制定された。技術者の採用については1897~1919年頃で、中途採用と高等教育機関への紹介依頼による新規採用を実施している。1925~1933年頃には、学校への紹介依頼と社内選抜を組み合わせていたという。1930年代には、工業・商業学校の校長・教員の積極的な就職斡旋活動・勤務状況調査などで学校紹介就職率が上昇したという。
 日本鋼管川崎製鉄所のデータでは、戦間期ブルーカラー雇用は、縁故による採用がほとんどであった。但し、職種別で異なり、①旋盤工・鋳造工ら職人的熟練労働者は地理的にも広い範囲で労働市場が成立し、必要に応じて縁故により確保できた、②製銑工・圧延工ら体力が必須なプロセスワーカーはOJTによるキャリア形成が行われ、遠隔でも馴染みのある農村地域から新人を集めていた。
 1947年制定の職業安定法は、職業選択の自由をうたいながら、戦後復興のための労働力の「調整」「計画」に言及し、新制中学卒業者に特別な需給調整制度が課された。1949年には職業安定法が改正され、中学校と職業安定所が連携して新規中卒者の職業紹介業務を実施する。1950年には職安経由就職率は15%だったが、高度成長が始まった1959年には45%になった。1961年には、労働省は新規中卒者の「需給調整要綱」を知事に通達し、業種別求人倍率が地域間で一定になるよう採用希望地を強制的に変更させたり、逆に、新規学卒者に対して希望職種・就職地を指導したりしていた。
 しかし、高校進学率の急上昇で中卒者は激減し、大企業でも定期採用による養成工へと転換したことで、企業の新規採用は高卒者へと傾斜する。高卒者の職業紹介では、高校側の戦前からの経験の蓄積が生き、職安が介入する余地はなかった。
 
 「日本型企業社会の現在、過去そして未来」宮坂純一 「社会科学雑誌」2014年12月
 日本企業の似非ゲマインシャフト=社縁による共同態。①ムラ共同体の中途半端な崩壊、②プロレタリアートの日本的形成=「出稼ぎ型」。従業員が「企業の共同体化」を求めた。③企業家・経営者も「イエ意識」を持ち込んだ。イエ(家系・家業)の存続が最重要。「資本家・経営者と従業員との関係を親子になぞらえ、両者の利害は対立するものではなく、一致すると主張され、温情的生活保障政策が打ち出され」、会社への帰属意識を高めた。
 終身雇用=①新規学卒者を学校・縁故中心に採用、②中高卒者は学校推薦、大卒者は試験・面接(能力審査)、③担当する仕事は明示されず、雇用契約書ではなく「誓約書」の提出が求められる。就職ではなく就社。④企業内教育と人事異動で会社に相応しい従業員に、⑤定年まで解雇はないとの暗黙の了解。⑥定年退職の際に、退職金・企業年金が支給され、最就職先が斡旋される。
 年功賃金=長期決済型賃金。欧米は短期決済型賃金(2週間程度)。
 集団主義=「集団主義イデオロギーとして一般化して、会社内の制度がそれをベースにして構築されていった」。①全会一致の意思決定。賛成でも反対でもない状況。②集団単位の仕事。③個人責任の範囲が不明確。権限と責任が不一致。無責任体制。
  ※集団主義が受け入れられる素地があったことが重要。アジア的生産様式との関係。
 2001年に松下電器労組が早期退職制を受け入れたことで、終身雇用は神話としても崩壊した。現在は、正社員時代の終焉=共同態幻想の解消。
 年功賃金から成果給(生活できない賃金)へ。勤続年数と技能序列の不対応。
「人間には本能として貢献心(他人に尽くす気持ち)があり、その貢献心は組織のために尽くす気持ちに容易に転化する」。「これを生かすも殺すも経営者次第」。「ステイクホルダーとしての従業員」の2側面=①会社(経営者)と対峙する存在、②組織の一員として社会と対峙する存在。

 「賃金とは 労使関係の観点から」金子良事 2017年4月
 出稼ぎに関係する論ではなかったが、戦前からの賃金論が継続していることを知ったので、メモしておく。
「賃金統制令=国家総動員法第6条に基づく勅令。軍需インフレのもとで、物価統制と関連して、熟練工争奪に伴う賃金高騰の抑制と労務需給の調節を行うため、1939年(昭和14)3月31日、従業者雇入制限令とともに公布された。軍需に関連する鉱工業の50人以上使用工場に、賃金規則の作成とその届出を義務づけ、未経験工採用の際の初給賃金を公定し、その諮問機関として中央および道府県に賃金委員会を設けた。しかし適用外産業との初給賃金格差が拡大したので、40年7月指定工場を全工業に拡大し、ついで9月女子の初給賃金も公定した。これとは別に39年10月、賃金臨時措置令で9月18日現在の賃金を1年間凍結した。
 その期限切れに伴って、1940年10月賃金臨時措置令を統合し、全面改定された(第二次賃金統制令)。これは販売事業を含む全産業の10人以上使用事業所に適用され、〔1〕最低賃金の公定、〔2〕移動防止のための経験工最高初給賃金の公定、〔3〕賃金総額の制限、を行った。重要産業の熟練工不足と生産能率低下のため、42年2月造船など重要事業場労務管理令の適用を受ける事業所が適用除外となり、翌年6月改正により、賃金総額制限方式は賃金規則および昇給内規の認可による新統制方式に移行した。敗戦後、国家総動員法廃止により46年(昭和21)9月30日失効した。賃金統制令は戦時下の労働者の賃金を抑制したのみでなく、政府による賃金規則の強制を通じて年功序列賃金制度の確立を促進した。」(コトバンク 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」(2021年9月22日現在)
 「総額賃金制限方式」=事業所の1ヵ月当たりの賃金総額を総労働者で除した平均賃金を一定にするもの。この平均賃金をベース、ベースの引き上げ交渉をベースアップと呼ぶ。
「これに対して賃金統制時から、技量の向上による昇給は認められており、その昇給の増加分によって総額が増加することは許可されていた。」これを定期昇給と呼ぶ。
「ベースアップも定期昇給も賃金総額の増加分を決める要求と妥結の論理である。」賃金総額の増加が妥結した後、配分交渉が行われる。配分は平均的ではなく、政策的に実施される。

 

 ネットで検索1ページ目に出ていたものを適当に選択したので、意図はなかったが、冒頭の栢野氏以外は「出稼ぎ型」労働を容認している。現状の就社をめぐる諸事情を見てもこうした歴史的制約を否定する材料はない。
 すると、問題は「階級としての労働者」=労働者階級の存在如何になる。