人畜無害の散流雑記

別ブログ閉鎖で引っ越して来ました。自分のための脳トレブログ。

 スウェーデンの社会民主主義

 「アジア的生産様式論」には私なりの結論を得たので、次のテーマを考えていたら、典型的な社会民主主義スウェーデンが浮かんだ。15年程前に友人に薦められて何冊か読んだことがあったが、その後も大きな変化はないはずだ。今回は、同国の政界の主軸となっている社会民主党綱領を入手できた。綱領は本来全文が尊重されるべきだが、あえて抜粋する。(出展:「ヨーロッパ社会民主主義論集(Ⅳ)」宮本太郎訳・生活経済政策研究所・2002年12月発行)

 ≪スウェーデン社会民主党綱領(2001年11月制定)から≫


〇すべての権力は、共にその社会を構成する人々に由来するものでなければならない。経済的な利害から民主主義に制約をかける権利は誰にもない。これに対して、民主主義は常に経済の条件を形成していくことができるし、また市場の働きを制限することができる。
〇資本の利益は周囲の世界に依存している。つまり資本主義は、社会制度のみがつくりだし維持することができる法や規則、インフラストラクチャーに依拠し、また自らの技術で生産に従事する雇用者と、需要をかたちづくって生産コストを支払う消費者に依存している。
〇階級という概念は、体制的に基礎づけられた人々の生活条件の格差であり、それは生産のあり方によってつくりだされ、人々の生活全般に影響をおよぼすものである。
〇階級格差は、人々が自由に成長し発展し、他者と同一条件で社会生活に参加していく可能性を制約するものである。
〇資本所有は、より匿名的な機関によるものとなっている。 → ①短期的配当要求の増大、資本の国際移動。②年金基金・保険会社の資本は賃金稼得者に依拠している。投資先への影響力の拡大。長期的には、資本と労働の境界線が緩む可能性もある。
〇三層への階級的分裂。資本所有層と、彼らからひきたてられた中間層が同盟して、労働市場において弱い立場の、あるいは労働市場から排除された層と対立する、という危険である。
〇平等を求めるとは多様性を求めることである。平等は差異を前提とする。しかし、社会的分裂とは相容れない。
〇連帯のためには、誰もがその能力に従って、社会生活と労働生活に対して貢献し、また責任をもつ必要がある。
〇ある発展の方向を、歴史によってであれ、宗教によってであれなんであれ、客観的に予定されたものと見る見方は、通常原理主義と呼ばれる。原理主義的な見方は、民主主義とは相容れない。この唯一の道についての真の解釈者を自認するエリートがいれば、その主観的意図の如何にかかわらず、結果的には独裁となる。
改良主義的な考え方は、民衆の多数派によって支持された、民主主義的な参加と改良に基づいていたし、今もそうである。改良主義者の責務は、人々の社会生活および労働生活への参加を漸次的に拡大することである。変革の仕事は、社会で生活する市民の要求と必要からスタートする。それがどのような要求と必要かは、常に進行する対話と討論によって定式化されていく。
〇生産手段の所有権を奪取することは、もはや決定的な要素ではなくなった。決定的なのは、経済の民主主義的コントロールであった。経済的民主主義は、権力を少数の機関に集中するようなやり方では不可能に近い。市民が生産の社会的条件を決定する権利や機会を扱うのと同様に、労働者や消費者の影響力も重視していかなければならない。
〇福祉改革によって、人々の移動の自由が拡大した。労使協約および労働法制と相俟って、労働者は、生活の資を得るために不合理な賃金や労働条件を受け容れる必要はなくなり、自らの生活を制御する力は強められた。福祉政策は、さらに生産の資本主義的秩序を変えることにも貢献した。
〇福祉体制が人々の責任を曖昧にし、そのためのコストが国民経済の競争力を損ねたと主張する新自由主義は、権力政治の表現であり、現実と合致しないイデオロギーである。人々が不遇なときにその行動力が高まり、また経済のもっとも重要な資源である人間が疲弊し弱体化したときに経済が強化されるなどというのは、資本主義的な神話にすぎない。
〇環境問題が示しているのは、民主主義的な経済もまた搾取的になりうることである。世代間の再分配という原理も含んでいる。
ジェンダー秩序。女性と男性とでライフチャンスに不平等が生じている。女性にとって人生における自己決定、自己発展の機会は制約されている。役割期待に縛り付けられた男性も人格的発展の機会を制約されている。男女の社会的相違を根拠づけるのに、生物的な相違を引き合いに出すことはやめるべきである。
エスニシティ性的志向性、障害、老齢などの差別的要因に対して、平等を目指す政策は挑まなければならない。平等のための幅広い取り組みの中に、社会民主主義にかかわるより挑戦的な課題が数多く含まれている。
〇民主主義は、共通の市民的関心にかかわる決定をおこなっていくプロセスである。それは複数政党制と普通選挙を条件とする。その基礎にあるのは、万人が等価で尊厳をもつという考え方である。
〇民主主義の射程は、民主主義自体によって決定される。社会のすべての権力は、社会をともに構成する人々に由来する。民主主義のプロセスと社会の管理が成り立つためには、それが公開され、監視されると同時に、明確で公正なルールが存在しなければならない。公行政における政治職や行政職は、すべての市民に同一条件で開かれたものでなければならない。
〇国際化は民主主義的な参加に対する新しい挑戦である。民主主義の一国的な政治形態と制度は、市民の関与を高めるべくいろいろなやり方で変革されねばならない。
〇私たちが求める経済秩序は、すべての個人が市民であり、賃金稼得者と消費者が、生産の果実の投資と再分配に対して、また労働生活の組織と条件に対して、影響力をおよぼす権利と機会を有するものである。ここでは、所有と企業の形態は多様である。市場は経済生活の一部であるが、社会的効用の源泉でも社会生活の規範でもない。私的利潤への要求が他の利益のすべてに優先し、社会の発展を方向づけるべきあるとする要求を認めない。市場と経済的利益の限界を設定するのは常に民主主義なのである。
〇民主主義は、公共の福祉のためにも、経済生活の効率とむすびつかなければならない。効率性と生産性は、開放性と多様性を必要とする。経済生活に対する多様な要求は、政治的決定によってのみ対処することはできないし、また市場的解決のみで対応することもできない。求められているのは、公的手段、市場メカニズム、強力な労働組合組織、思慮深く活動的で、強力な消費者法制に支えられた消費者がつくりだす混合経済なのである。
〇政治的決定を通して、あらゆる形態の搾取を抑止し、経済のバランスを確保し、生産の成果を公正に、かつ基本的な社会権に適合するようなかたちで再配分するルールがつくりだされなければならない。
〇市場は、福祉の資源をつくり出し続ける効率的な生産のために不可欠な存在である。資本主義と市場経済とは区別して考えられなければならない。市場経済は、財とサービスが交換手段としての貨幣をとおして所有者を変えていく分配システムである。それに対して、資本主義は権力システムであり、資本に対する収益をあげることを最優先の規範とするものである。
〇市場は、きわめて多数の自立したアクターによって構成され、こうしたアクターたちが、多様な発想を生み、そのことをとおして豊かな経済資源が生み出される。市場には財を集中させる傾向があるが、これは市場自体の存在条件である多元性と相矛盾する。市場の活動を支える価格メカニズムは、市場が十全に機能するために求められる安定したルールを生み出すことができない。市場から自立した公的機関のみが、こうしたルールや規制をつくりだし維持することができる。
市場メカニズムは、空気や水のような市場価格のない資源を扱うこともできない。
〇市場は、力強い需要というかたちで表出した選好のみに対処することができる。社会権を構成するような効用、収入の如何を問わずすべての人に提供されるべき効用というのは、市場という分配原理の外で、他の原理に即して配分されなければならない。ケアサービス、学校、医療サービス、法システム、文化、住宅、通信、社会的インフラなど。
〇公的コミットメントと市場経済の間で選択を行っていくときの出発点は、その2つのうちいずれが、公正および効率という点からして最善の結果を生みだすか、ということである。その選択は、経済を構成する多様なセクターごとに異なったものとなろう。
〇民主的経済は、異なった利益が相互に協調し、資本の利害に対して民主主義が優先される経済である。民主的経済は、人間も地域も、例外なく皆が福祉の創出に参加することができて、また福祉を活用することができる、そのような権利に立脚した経済である。
〇平等化のための政策は、常に、不平等によって不利益を被っている人々のニーズと条件から出発するべきである。しかしその一方で、平等を目指す改革にかんしては、多数派の人々がそれを正しいし有益なことであると確信し、その確信が改革を支えていなければならない。こうした裏付けがなければ、改革は持続可能ではない。平等な社会は、すべての人々の生活の幅を広げ、それを豊かにするときに初めて持続可能となる。
〇学校、ケア、医療は連帯の精神に基づき、税金によって財源調達されるべきである。
〇自らの収入源が失われたときに、良好な経済的保護がうけられるということは、個人の安全と自由にとって根本的な問題である。普遍的な社会保険体制だけが、個人の経済的保護という要請と、再配分政策をとおしての特定集団の保護という政治的な要請とに、共に応じることができる。
〇住宅政策は、普遍主義的福祉の不可欠の一部であり、ケア、学校、医療と並ぶ福祉政策の四つ目の柱である。住宅をもつことは社会的権利であり、住宅を供給することは社会の責任である。
〇経済成長の目的は、人間の福祉を増大させることである。
〇人間の労働は、資本と技術とを結びつけ価値生産的な雇用をつくりだすものである。人間の労働こそすべての福祉と文化の基礎である。
〇すべての人に仕事が行き渡り、また、働きたいと思うすべての人の技術と能力を活用する労働生活が形成される必要がある。完全雇用は経済的目標であるばかりか社会的目標である。完全雇用によって、すべての人々が福祉の創造に参加できる。
〇税制は、健全な経済活動に報い、重要な福祉サービスの財源調達を保障するように設計されなければならない。法的に単純で、明快であり、一貫性があって、課税ベースが広いことが基本原則である。
〇働く意欲のある人々が、(差別や偏見によって)労働市場のなかで無視されたり、貶められたりするのは、人間の尊厳に対する冒涜であり、社会的不公正の主要因である。
〇この国に居住するすべての人々は、国全体が活力に満ちた発展を遂げるということに共通の利益がある。地域が均等に発展していくことで、より多くの雇用が生み出されるし、国内の多様な資源がよりよく活用される。そして、その結果、共通の福祉のためにより多くの資源がつくりだされることになる。
〇すべての人々に知識を獲得する可能性と条件を提供していくことは、階級的関係を解体していくうえで中心的な事柄である。知識と能力は、しだいに、労働生活における個人の機会を決定づける道具となりつつある。こうした道具に接近するうえで大きな格差があるとすれば、労働生活における格差が拡大し、社会的格差も広がる。労働生活においてすべての個人に高い水準の知識と能力が行きわたるということは、他方において、生産を通してつくりだされた階級関係が変容するということを意味する。労働生活における高い水準の能力は、同時に、産業の競争力を強化し、このことを通して福祉の資源をも拡大する。
〇学習とは、学習している当人の参加と関与があってこそ成り立つプロセスである。教えるということはチームワークであり、知識への探求を触発する教師の役割と、自らの学習に責任をもつ学生の意欲と能力が、ともに尊重されるなかで成立するべきものである。
〇学年のない学校こそ私たちの政策的目標である。
〇平和こそすべての発展の条件である。目標となるのは、世界の資源を、世界の人々に福祉と繁栄の機会が平等に行きわたるように、公正に再分配することである。
〇国際問題と国内問題は融合している。国内政策と外交政策の境界は消えつつある。
〇世界のコミュニティは、ある人々の集団が深刻な脅威を受けたときは、仮にその脅威が国家機構内部の人間からのものであったとしても、それに対抗して行動できなければならない。
〇人権が侵害された場合は、どこでも同じ基準が適用されなければならないのであって、そうして初めて信頼が生まれる。

 

 スウェーデン社会民主労働党 出典: ウィキペディアWikipedia)≫

 スウェーデン社会民主労働党(Sveriges socialdemokratiska arbetareparti、略称: SAP、俗称: Socialdemokraterna)は、スウェーデンの政党。社会民主主義を掲げる中道左派政党である。現在同国最大与党。スウェーデンでは最も古い政党で、社会主義インターナショナルに加盟している。
 ※「社会民主党」は俗称ということになる。

●創党と選挙戦
 1889年4月に、ストックホルムで結党。1880年代の労働組合創設と、オーガスト・パームが主導した1882年にマルメ、1885年にストックホルムで創刊された社会主義新聞が結党に重要なきっかけになる。結党初期はドイツ社会民主党から大きな影響を受け、初期の綱領は社民党のゴータ綱領とエアフルト綱領をモデルとしたものとなっている。
 1896年に、ヤルマール・ブランティングが自由党の援助により、初めて社会民主労働党所属の議員として議会に進出した。1911年には共和制導入を党是のひとつに掲げるようになる。
 1917年に、自由党との連立政権に参画するが、同年に改革的指導部と急進左翼の間の党内紛争により、急進左翼が党を追い出される形となり、現在の左翼党の前身となる社会民主左派党を結党する。1920年普通選挙権と女性参政権が確保されると同時に連立を解消、単独政権を樹立し、選挙で樹立された最初の社会主義政権となった。以後、今日に至るまでほとんどの期間、政権を担いつづけている、スウェーデンの優位政党である。
第二次世界大戦以前~戦中
 社会民主労働党政権はスウェーデンモデルと呼ばれる福祉国家を築き上げてきた。一時期、党内では急進化が起きて、生産手段の国有化を主張する声が大きくなったが、経済危機と大量失業、ファシズムの圧力により、国有化政策の実現は凍結される事となった。世界恐慌が飛び火した1930年代には、1932年の選挙後に農民同盟の支持によりペール・アルビン・ハンソンを首相とする政権が構成された。ハンソン政権はケインズ主義に先駆けた財政政策を行い、リクスバンクの物価を目標にしたリフレーション政策にも押されて恐慌を日本と並んで最速で脱出し、国民の家をシンボルに福祉国家の形成に着手した。1936年に第2期ハンソン政権が成立すると、両政党間の連携は更に深いものとなり、議会の安定的な支持によって、積極的に社会福祉政策を取り入れることができた。
 第二次世界大戦では奇跡的に中立を維持したものの、福祉政策の実行は一定の制約を受けるようになる。そして戦時体制の確立や経済問題解決の為に、3党の主要政党が参加する挙国一致内閣が構成された。その間にも、普遍主義的福祉政策を完成させ、その支持基盤を盤石なものとした。
●戦後
 社会民主労働党の長期政権を通じて、完全雇用政策と第二次世界大戦以前に企画した本格的な福祉国家の実現が可能となり、1968年には、戦後最高となる50%以上の得票率を獲得した。しかし、スウェーデン経済は1970年代には行き詰まりを見せ、1971年の憲法改正オイルショックの後に経済問題、原子力発電所論争等から党に対する逆風が強くなり、1976年には、42年ぶりに下野する事になった。
 政権を譲り渡した6年後の1982年に再び政権の座に就いたが、オロフ・パルメ首相が1986年に暗殺され、党内は混乱した。後任の首相になったイングヴァール・カールソンは、1990年に30年ぶりの最大経済危機に直面して賃金凍結やストライキの禁止等を提案するようになる事態に直面する。また、東西冷戦崩壊のあおりを受けた事もあり、翌1991年に社会民主労働党は大敗して、保守の穏健党を中心とする中道右派連合に政権を譲り渡した。しかし、穏健党が経済運営に失敗し通貨危機をもたらしたため、1994年に早くも政権を奪還し、バブル経済崩壊の早期収拾に成功した。同年に、党指導部が主に賛成したEU加入を決定する問題により、一時党が分裂したが、加入決定後はEU問題に関する議論が起こる事は殆ど無かった。EUの中でのスウェーデン福祉国家の建て直しを模索し続けている。
 しかし近年のスウェーデンでは、中道右派の穏健党や自由党リバタリアニズムを捨てて福祉国家擁護の立場に転じたことにより、経済政策面では社会民主労働党を中心とする中道左派と穏健党を中心とする中道右派の違いがほとんどなくなっている。このような事情を背景に、2006年9月の総選挙で、社会民主労働党は穏健党を中心とした中道右派連合に敗北。12年ぶりに下野する事になった。2010年9月の総選挙では、野党として総選挙に臨んだが113議席にとどまり、再び中道右派連合に敗北。総選挙では初めて連敗し、また戦後最低の議席となった。その後2014年9月の総選挙において、社会民主労働党中心の中道左派連合が158議席を獲得して8年ぶりに政権に返り咲いた。
 
 ≪スウェーデンの「中立政策」 200年間参戦していない国≫
 
 スウェーデン外交政策の概略。(『スウェーデンの政治 デモクラシーの実験室』岡沢憲芙・奥島孝康編 19994年6月刊)
 1397年スウェーデン・カルマルで成立した北欧3国の同君連合盟約(カルマル同盟)で、デンマークノルウェーの支配者マルグレーテ女王が、スウェーデンの国王を廃し、姉の孫エリクを3国の王とし、自ら摂政して実権を握った。1523年に、スウェーデンデンマークと戦って分離し、同盟は解消した。
 その後、ロシア、ポーランドと戦いバルト海に進出し、「バルト帝国」を築いたが、大陸諸国の国内対立克服・対外拡張政策に会い縮小。ナポレオン戦争(1799~1815年)に際して、歴史的にロシアを最大の脅威としていたスウェーデンは、イギリスと同盟し、ロシアの同盟国フランスと対立した。その結果、フィンランドをロシアに割譲するなど領土の3分の1を失い、グスタフ5世は亡命した。
 スウェーデン議会は1810年、ナポレオン軍最高指揮官の一人だったベルナドット将軍を皇太子として迎え、1818年に国王カール十四世ヨハンとなった。その狙いは、フランスと同盟してロシアからフィンランドを奪還することだったが、ベルナドット自身は「北ヨーロッパにおけるイギリスとロシアとの勢力均衡下での中立外交」(1812年政策)を目指し、ノルウェー獲得を優先し、ロシアと同盟してスウェーデンノルウェー同君連合を成立させる。この政策は、「親イギリス・フランス、反ロシア」だったスウェーデン世論と矛盾していたため、その後何度も国際紛争介入を巡って蹂躙されそうになったが、普仏戦争(1870~71年)でのフランス敗北が決着を付けた。小国にとって、戦争は対外政策の手段としての有効性を失い、逆に、小国の主権を脅かすものとなった。ここに、大国による干渉を阻止する中立政策が確立することになった。
 第一次世界大戦の結果、ロシアは10月革命・内戦で弱体化し、ドイツは非軍事化され、フィンランド、バルト3国は独立、ポーランドは復活する中で、スウェーデンは大戦期を通じて防衛力を強化し北ヨーロッパ地域の軍事大国となった。
 第二次世界大戦中には、対ソ抵抗戦に臨むフィンランドへの志願兵黙認や物資支援などを実施し、ナチ軍隊のフィンランドへの列車通過を容認するなど中立政策に抵触する事態もあったが、戦争行為には踏み込まなかった。
 戦後は、国連第一主義を貫いている。

 スウェーデンの合意形成型政治≫

 スウェーデン政治の専門家・岡沢憲芙氏は、スウェーデン政治の特徴を「合意形成型政治」とする。(『スウェーデンの政治 実験国家の合意形成型政治』岡沢憲芙著 2009年3月刊)
 合意形成型政治(コンセンサス・ポリティクス)=社会のための価値の権威的配分の過程で、対決基調を希薄化し、物理的力や暴力の有効性を減じながら、時間をかけた調査と審議を通じて妥協点を模索し、政策同意を調達して、着実に合意範域を拡大し積み上げることを優先する政治スタイル。
 これを成立させるために次の4条件を抽出する。
 ①深刻な政治的対決軸の不在=調整可能課題への移行。
立憲君主制での国民的合意。社民党1920年綱領以降共和制を掲げているが、選挙戦で争点にしたことはない。
〇経済政策では、国有化の廃棄、福祉経済で合意。
外交政策では、非同盟・武装中立(武器自力生産)・国連主義で合意。1815年以来の200年にわたる平和の伝統に挑戦しようとする政党はない。
 ②問題解決ルールの整備と合意。
〇議院内閣制は1921年に成立したが、それ以来、左右の「過激派」政党は存在しない。
〇1970年以降の投票率は90~80%で極めて高い。参加と公開、平等と公正、理性と言論による利害関係者・少数派の抱え込み。
 ③政党リーダーのプラグマティズムと連合形成力=熟議と妥協。
〇現役生活時代に膨大な老後投資を要求する高負担社会は、全国民を既得権保守派に変換するので、結果としては、プラグマティックな心性を助長する。確実な手形決済を保証する実務家タイプのリーダーを要求する。
〇資料を可能な限り整理・保管し、改竄・紛失・廃棄しない。情報公開を徹底する。調査結果を公表し、時間を超えて補償し、未来からの批判に備える。
〇公務に携わる者が経済的・精神的腐敗を繰り返したら、福祉国家は建設・維持できない。
〇議員で構成される調査委員会が広範な意見を集約し、法案の枠組み作りに事前合意を生かす。意思決定過程では、与野党合作となる。これは、野党の政権担当能力教育ともなる。
 ④システムに対する究極的な信頼。
〇平和の継続は、政治的・経済的・文化的財産となっている。他国民に対して加害者になった記憶も、被害者になった記憶もない。
〇どんなに負担が大きくとも戦争発生でご破算になることはない、いずれ人生のどこかで戻ってくる。
〇意思決定者は、オール・オア・ナッシングの論争に没入する必要がない。

 ●こうした状況を歴史的に形成したのは社会民主党の主体的力量だった。
1.組織は全国的で社会全体に及ぶ。労組全国組織LO、青年・婦人・子供会・キリスト教市民組織・年金受給者・消費者運動・保険会社・住宅建設協同組合など。
2.社民党とLOの絆が切断されない限り、また「社民党を連帯保証人としない限り、どの党も政局運営にあたれない」。
3.政党への国公庫補助制度の導入で、すべての政党は、補助金・党費・募金による財政を実現し、大口献金者への依存を断っている。
4.実験政策を順次提出し、漸進的改良主義を実現している。

 ≪2つの感想≫

1.「労働」の位置付け。
 綱領を一読して、最初の印象が「労働」把握の相違だった。「労働」概念、その意味するものが違う気がした。
 極めて粗雑な私見によれば、古代的生産様式の一つである「ゲルマン的形態」→独立自営農民と、アジア的生産様式に基づく共同労働→賦役労働の違いだ。労働の成果が本人とその家族に帰属するという文化を形成してきた歴史と、成果が集団に帰属した後に本人に分かち与えられるという文化の差を感じてしまう。
 労働が価値を生み出すからこそ、「福祉と文化の基礎」であり、「完全雇用は経済的目標かつ社会的目標」であり、「完全雇用によって、すべての人々が福祉の創造に参加できる」。労働はただの「社会参加」ではなく、効率的に価値を生みだし、そのことで社会貢献していくのだ、という社会民主党綱領の積極的な労働観に圧倒されてしまった。
 日本の場合には、「過労死」が国際語として通用する程度に、「企業奴隷」から脱していない。労働は「会社から課せられた義務」であり、賦役と同等なのだろう。消極的・従属的労働観といえる。
 『賃労働と資本』の関係は、スウェーデンも日本も変わらない経済法則だが、その表現形態には歴史的刻印が深い。日本国憲法と同様に、戦後与えられた民主的労働法制はそれなりに整っているのだから、なし崩しにさせず「積極的労働観」を作っていく必要がある。
 
2.日本の歴史的・政治的現状は「深刻な対決軸の存在」にあり、「合意形成型政治」とは対極にあるといってよい。
 第二次世界大戦(アジア太平洋戦争)の戦後処理=サンフランシスコ講和条約(1951年9月調印、翌年4月発効)による片面講和(中国・インド・ビルマ・ユーゴ・ソ連ポーランドチェコとは締結せず)、米軍基地の維持がそれだ。
 沖縄が典型的だが、サ条約で米軍の信託統治領とされ、全島が軍事基地化された。1972年5月に日本に返還されたが、基地の実態は変わっていない。日本本島でも、要所に置かれた米軍基地は日米安全保障条約でほとんどそのまま残されている。首都東京がアメリカ陸海空軍に包囲されているのは、もう一つの象徴だ。「米軍基地撤去」は日本の独立国家化の要であり、対決軸として残っていかざるを得ない。縮小化が現実的な目標となろうが、自民党政権下では本気で取り組んでいるようには見えない。「思いやり予算」で厚遇している。
 領土問題も安保と絡んでくるのは、ロシアの態度で明瞭となった。「国民的合意形成」には相当な時間が必要だろう。
 
 (追記)
 アジアを置き去りにした戦後処理方針の根底には、天皇制維持という終戦受け容れ条件がある。その意味で、「偽の討幕密勅」で起こしたクーデターだったため、「玉」を担ぎ上げ続けざるを得なかった明治維新を引きずっている。
 半藤一利氏は『幕末史』(2008年12月刊)で、「現在の歴史学では、一連の沙汰や命令書は天皇が承認した証しである「可」の字もなく、すべて岩倉具視の秘書、玉松操が草稿したものを正親町三条実愛と中御門経之が分担執筆し、それを天皇の生母の父親である、中山が、天皇の手を取ってハンコをペタンと押したものであることが明瞭になっています。つまり、なーんにも知らない明治天皇がおじいさんの言うとおりにハンコをペタンと押したいわば偽の密勅ですので」(P260)と指摘している。
 そう言えば、「手を取ってハンコをペタンと」押させた歴史的事件がもう一つある。第二次日韓協約(1905年(明治38年)11月17日締結)だ。「ここで言う代表者個人への強制の事例としては、強硬な反対派であった参政大臣の韓圭ソル(ハン・ギュソル)の別室への監禁と脅迫、憲兵隊を外部大臣官邸に派遣し、官印を強引に奪い取極書に押捺した事などがあったとされており、その様子がロンドンデイリーメイル紙の記者マッケンジーの著書『朝鮮の悲劇』や、11月23日付けの『チャイナ・ガジェット』(英字新聞)に記載されている」(『ウィキペディアWikipedia)』。これにより大韓帝国の外交権は、ほぼ大日本帝国に接収されることとなり、事実上保護国となった。
 明治維新以来の大日本帝国の歴史と伝統は旧日本軍の中で生き続けたのだ。旧日本軍幹部が相当数残ったと思われる警察予備隊自衛隊でも「伝統」は息づいているのだろうか。