人畜無害の散流雑記

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保守思想家・佐伯啓思氏への違和感

 朝日新聞22年8月27日付朝刊の佐伯啓思氏『異論のススメ』に一言。今回のテーマは「安倍襲撃事件」だ。
 朝日新聞紙上での佐伯氏の論調は毎回慎重な言い回しに終始しているが、そこに違和感がある。佐伯氏は保守思想家だそうだが、朝日新聞側の保守の線引きと、佐伯氏側の朝日新聞への忖度=逆に言えば、「保守」マスコミへの忖度でもあろう=が重なり合った曖昧さが付きまとう。
 佐伯氏は1949年生まれで大学を卒業後、教育・研究界を歩んでいるが、本コラム筆者も、住んでいる界隈は別として同時代を生きている。それであれば、70年代末~80年代初頭の諸大学での原理研活動を知らない筈がないと思うが。原理研勝共連合で、自民党反動グループとの結合も見聞している筈だが。
 さて、標記論文での佐伯氏の論点への疑念を幾つか挙げておく。
1,「手製の銃による犯行」の容疑者が「普通の人」であった、との指摘。銃の製作・使用者は日本では「普通の人」ではありえない。自衛隊・警察官・競技者・暴力団のいずれかだ。
2,「通常の政治的テロではない。」「交わるはずのない、私的な復讐と政治的な公共空間が重なり合ったのだ」。そんな馬鹿な。この事件は政治的テロそのものだ。旧統一教会の被害者という「私的な復讐」と、手が届かない統一教会総裁に代わり、手の届くところにいる統一教会広告塔としての前首相・安倍晋三氏という「公共的空間」が重なり合った。
 1960年10月の立会演説会での社会党委員長・浅沼稲次郎氏への短刀でのテロ暗殺事件では、容疑者はアジア反共青年同盟所属の17歳男性であった。大物右翼政治家の思想的影響にあったといわれたが、少年鑑別所で自殺し、背後関係はうやむやにされた。この事件に比べれば、動機は判然としている。事件のその後の推移を見れば、目論見以上に、「旧統一教会」系の諸活動、特に日本の政治家への関わりに光が当てられている。旧統一教会被害者も掘り起こされている。
3,「リベラルな秩序の実現は、人々が、「目に見えない価値」を頼りにして営む日常の生によって実現してゆく。」「実際に「目に見えない価値」を醸成し維持するものは、人々の信頼関係……、ある種の権威に対する敬意、正義や公正の感覚、共有される道徳意識などであろう。」「それらは、あまりに急激な変化にさらされてはならないのであり、その意味で、「目に見えない価値」を重視するのは「保守の精神」なのである。それがなければ、リベラルな価値など単なる絵にかいた餅にすぎなくなるであろう。」なるほど、ムラ意識・集団主義・男尊女卑・上位下達など「目に見えない価値」が現在まで残り続けているのは、それらを残そうとする勢力がいるから、というわけだ。それらは「急激に変化」してはいけないものなのだ。
4,そして佐伯氏の結論。「今日あらゆる局面で「リベラルな秩序」は崩壊しつつある。」「それはリベラルな秩序を支える「目に見えない価値」が衰退したからである。」「リベラルな価値の普遍性という思いあがりが、現実社会の中で「保守の精神」を衰退させていった。」佐伯氏のいう「目に見えない価値」「保守の精神」の核心は何だろう。「大和こころ」「和の精神」「尊王攘夷」とかいうものだろうか? 佐伯氏の論調のどこにも、「個人の尊厳・尊重」という視点が感じられない。現代日本社会は、77年前に与えられた日本国憲法に書き込まれた国民主権・平和主義・個人尊重などという政治的権利・理論を、各種の抵抗を打ち破って定着しようと日々格闘している=「急激な変化にさらされ」ている真っ最中なのだ。「保守の精神」が衰退し、佐伯氏がリベラルだと感じているような秩序の崩壊こそが、日本社会民主化への道だ。遥かに遠く、辛い道のりであっても。