人畜無害の散流雑記

別ブログ閉鎖で引っ越して来ました。自分のための脳トレブログ。

「民主主義の危機」は存在するか?

 朝日新聞2022年8月12日付朝刊のオピニオン欄「山腰修三のメディア私評」に、「安倍元首相銃撃」事件を題材とした「民主主義という参照点から掘り下げて」という一文が掲載されている。
 趣旨を示す幾つかの文章を要約・抜粋する。「選挙後、この出来事に関する民主主義の危機という観点からの議論は急速に沈静化した。」「政治と切り離され、漂流する不満が暴力の形で噴出してしまったのであれば、それは「民主主義の敗北」にほかならない。」「近年、世界的な民主主義の退潮が繰り返し指摘されてきた。」「一般の人々の不満や要求を政治につなげる回路たるべき組織や制度が徐々に衰退し、民意は漂流を始めている。」「民主主義の危機がいかなる形で進展しており、今回の問題はその文脈においてどう位置づけられるのかを分析し、民主主義を支える諸制度を機能させるために何が必要なのかを論じることである。」
 随分と悲観的な世評だ。その原因は「民主主義」の考え方にある。「民主主義の危機」は存在するのか?

 民主主義は運動であり、現在は歴史的到達点にすぎない

 「民主主義」を固定的に捉え、欧米の政治的・文化的民主主義水準を標準として考えると、山腰氏のようになる。欧米の民主主義といえども極めて不完全・不十分で、宗教・人種・性的あり方など課題は満載だ。アメリカ合衆国に至っては、「合州国」なのであって、州ごとに政治的・宗教的・教育的・人種的な差異がある。大統領選挙では、代理人総取り方式で、国民的な得票数が反映するものではない。銃の所有が米憲法で保障されているというのも、民主主義より「暴力勝負」という国の性格が現れている。所有と使用とは違うはずだが、それを問われることもないようだ。トランプ前大統領が現代アメリカ白人民主主義の典型だ。
 ヨーロッパ諸国では、各国の課題を抱えながら、EUという実験を進めている。出発点は「平和の維持」だ。「経済圏の創出」はその過程で、紆余曲折しながら歴史的には前進している。

 日本国憲法を根付かせるのはこれからだ

 民主主義の究極的目標は「個人の尊厳」確立にある。日本の憲法は、第二次大戦時の国際歴史的到達点にあっての「最高の民主的法律」ではあるが、与えられた国民の政治的・文化的水準は「江戸末期」のままだった。徳川に代わって京都・天皇が、藩に代わって県が設置されたにすぎない。農民にとっての為政者は実質的には集落制度がそのまま残った。急速に資本主義化し、欧米列強の一員に加わろうとして制定した大日本国憲法は欽定憲法、つまり天皇とその取り巻きが作成したもので、国民的討議にかけられたとはとても言えない代物だ。しかも、制定当時、国民の大半は憲法の意味さえ理解していなかったと言われる。
 第二次世界大戦(太平洋戦争、大東亜戦争など=呼称はどうでもよい、その呼称に含まれている価値観を総括すればいいのだ)の結果、日本の政治機構の変化を象徴するのが、マッカーサー司令官と天皇が並んでいる一枚の写真だ。天皇が人間化し、マッカーサーの下位者になったことの表明だった。GHQは、日本の旧統治機構のうち、彼らが軍国主義的・敵対的と判断したごく一部分を排除し、残りは全面的に活用した。つまり、戦前の政治・行政機構=江戸時代末期から引き継いだものはそのまま残ったのだ。こうして、最新の民主主義的理念と幕藩体制下の残滓が、国民の生活全般でせめぎ合うことになる。
 戦後77年、そのせめぎ合いの結果が現在の日本だ。政治意識の遅れは幾らでも挙げられる。典型は最高裁判所の選挙権判断だ。「一票の格差は、衆院は2倍未満、参院は3倍未満なら合憲」だという。「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」(憲法第14条)という文言は日本では恥ずかしげもなく曲解される。日米地位協定に代表される安保法制は憲法体系を抑圧している。
 そんな中でも、日本国民は、「個人の尊重・自己実現」に向けて様々に努力してきた。男女格差の実際が明らかにされ、育児の社会的状況が細部で議論されるなど歩みは遅いが民主主義的には前進している。宗教二世問題も社会視されるようになったのは前進だ。
 
 個人的抵抗が繋がり合って社会は変わっていく

 民主主義が運動である限り「危機」はない。運動でなくなれば、つまり、「個人の尊厳を守る」という繋がりがすべて切れれば危機になるかもしれない。人間の歴史は、紆余曲折・前後進はあっても全体として「個人の尊厳」を確立する方向にある。日本国民が個々に闘い感じている苦痛は、前世紀の遺物との闘いであり、自力で克服するしかない課題なのだ。決して「民主主義の危機」ではない。民主主義を定着させ、拡大していく機会なのだ。SDGSなどという難問にさえ、国際的に取り組もうという気運がある。これなども民主主義の深化といえるだろう。建前と本音、総論と各論、計画と実行などの行き違いはあるのが当然だ。それでも、ここまで進んできている。ウクライナ侵攻などの戦争状態、コロナなどの疾病、食糧不足などがあっても、民主主義的原則を貫くことができれば、人間社会は存続できるだろう。
 
 【追記】
 この記事の上段に政治学者・豊永郁子氏の「寄稿・ウクライナ 戦争と人権」が掲載されている。結論が分かりにくい文章で3回ほど読み返してしまった。要するに「プーチン軍がキーフに進攻してきたとき、ゼレンスキーが白旗を掲げていれば、ウクライナ国民の人的被害は少なかっただろう。今からでも遅くないから、即自降伏してウクライナ国民の人権を守るべきだ」ということらしい。侵略する側と侵略される側との人権は同格ではない、という初歩的なことが理解できていないようだ。侵略する側は常に上位にあり、侵略される側は蹂躙される。ネットで見たら、朝日新聞編集者の見識への疑問を含めて、この記事には多くの批判があるので、ここではこの程度で。「万年民主主義危機論」や「対侵略戦争無抵抗論」という言論への新聞紙面上での討議を朝日新聞がどう扱っていくのか見ものだ。

「労働」の日本的形態考・その3 「階級構成」

 繰り返しになるが、私の問題意識は、日本の労働者階級が「階級」として成立したのはいつか? だ。明治開発独裁政府が資本主義化を推進していくが、同時に生みだされるはずの労働者「階級」は、「一家をあげて農村から流失し、工場地帯に結集し賃金労働者となり、それが再生産され蓄積されて社会層となっていく」というヨーロッパ諸国のような過程とは異なるにしても、日本でも時間を掛けて厚みを持った社会層を作ってきたはずだ。これまで見てきた書籍・資料では、大河内一男氏の指摘した「出稼ぎ型労働」の影響は、第二次世界大戦での日本の敗戦後まで強く残っており、「階級」として自立していたとは言えない。
 その回答を、橋本健二著『新・日本の階級社会』(2018年1月刊)に見つけた。SSM(「社会階層と社会移動」)調査データから算出された「世襲率の変化」がそれだ。「旧中間階級出身の労働者階級比率は、八五年まで急速に上昇した。その主要な原因は、高度成長期に農民出身者が大量に労働者階級へ流れ込んだことである。ところが九五年には労働者階級比率が低下し、以後は横ばいといっていい。したがって労働者階級が固定化傾向を示すようになった主な原因は、労働者階級出身者が父親と同じ労働者階級に所属する傾向を強めたこと、そして旧中間階級出身者が労働者階級になりにくくなったことの二つだといってよさそうだ。」(P137)また、「旧中間階級への移動も減っている。」(P138)
 次の記述もある。国勢調査から算出した階級構成の変化だ。
「戦後間もない一九五〇年には、旧中間階級が日本の有業者の六割近く(五八・五%)を占めていた。労働者階級はその半分にも満たない二八・一%で、新中間階級も十一・二%にすぎず、当時の日本が、まだまだ発達した資本主義社会といえる段階になかったことがわかる。しかも四五・二%までが農民層で、実数はなんと一六〇三・六万人である。この時期の日本は、ひとつの巨大な農業国であったのである。/しかしその後、経済復興が進み、高度成長が始まるとともに、農民層は激減していく。そのスピードはすさまじく、一九六五年には一一〇九・七万人にまで減少した。実に年平均で三二・九万人もの農民層が流出したことになる。その後も農民層の減少は続く。二〇一〇年の農民層は総数八一・三万人で、一九五〇年の九分の一程度にすぎず、全体に占める比率はわずか三・二%となっている。」「自営業者を含めた旧中間階級と労働者階級の数が逆転したのは、おそらく六〇年代初めである。六五年には、旧中間階級の比率が三五・三%にまで減少し、四四・七%を占める労働者階級に一〇ポイント近くの差をつけられている。新中間階級も、労働者階級とほぼ同じような増加率を示し、九〇年には旧中間階級を上回った。こうして日本の階級構造は、発達した資本主義社会としての特徴を示すようになった。」(P70~71)
 1955年から始まる高度経済成長期、70年代中盤からのオイル・ショック期、80年代中盤からのバブル期を経て、農民層分解が終了し、労働者階級が蓄積された社会層として認められたのが90年後半になる。40年程掛かったことになる。それまでは農村とヘソの緒でつながっていたのだ。
 それでは、現代日本の階級構成はどうなっているのか? 橋本氏の示す図は次の通りで、基本は4階級構成だが、実質は4+1の5階級だという。(P62、P78)
 
 資本家階級(経営者・役員)            |
    |                     |
 新中間階級(男性の管理職・専門職・上級事務職)  | 旧中間階級(自営業者)
    |                     |
 労働者階級(被雇用者)              |
   【正規/非正規=アンダークラスの2層化】
 
 旧中間階級とは、資本主義以前から存在する自営の農民・業者で、自分で少量の生産手段を所有し、自分と家族が働いて生産している。
 新中間階級とは、資本主義の発展に伴って現れた、資本家階級が元来行っていた、労働者の管理・監督や生産設備の管理などの業務を任せられた、資本家階級と労働者階級の中間に位置する労働者を指す。
 2012年の構成比率は、資本家階級4.1%、新中間階級20.6%、労働者階級62.5%(正規35.1%、パート主婦12.6%、非正規14.9%)、旧中間階級12.9%となる。(「平成24年就業構造基本調査より算出。ここには退職者を含む無職者は入っていないようだ。)
 労働者階級を男女別にみると、男性では55.4%と半数強だが、女性では71.9%と大半を占める。女性の内訳は、正規27.6%、パート主婦29.3%、非正規15.0%でパート主婦の比重は大きい。また、労働者階級の内訳比は、正規56:パート主婦+非正規44となる。(P67~68)
 橋本氏が注目しているのが、「非正規労働者」の固定化であり、その結果としての格差の増大=格差社会の出現だ。2015年SSM調査によれば、「アンダークラス(パート主婦を除く非正規労働者)は九二九万人で、旧中間階級の八〇六万人を上回り…、いまや資本主義社会の主要な要素のひとつになったといっていい。…五つの(階級の)なかで唯一、激増を続けている階級である。女性比率は四三・三%で、女性比率がもっとも高い階級でもある。」(P89)「平均個人年収は一八六万円と極端に低い。」「貧困率は極端に高く、三八・七%に上っており、とくに女性では四八・五%にも達し、さらに夫と離死別した女性となると六三・二%である。」(P90~91)(貧困の基準は、回答所得中央値の半分を基本としつつ、調査時の経済状況を鑑みて調整している。)
 1986年に「13の業務に限定」されて労働者派遣法が制定されてから、1999年改正で対象業務が原則自由化され、2004年には製造現場への派遣が解禁となり、30年を経て日本でのアンダークラスが固定化された。「家計補助型」の出稼ぎ労働は、「働き方の多様性」を口実に景気循環調整型派遣制度として現代資本主義に組み込まれた。
「これまでの労働者階級は、資本主義社会の底辺に位置する階級だったとはいえ、正社員としての安定した地位をもち、製造業を中心に比較的安定した雇用を確保してきた。これに対して激増している非正規労働者は、雇用が不安定で、賃金も正規労働者には遠く及ばない。」「労働者階級が資本主義社会の最下層の階級だったとするならば、非正規労働者は「階級以下」の存在、つまり「アンダークラス」と呼ぶのがふさわしいだろう。」「アンダークラスは、もともと英米圏での研究から生まれた用語で、主に大都市部で生活する少数民族貧困層を指すことが多かった。しかし先進国の多くで経済格差が拡大するなか、今日ではより一般的な存在となった。古くはラルフ・ダーレンドルフが、福祉国家の衰退によって市民権を奪われたり、制限されたりしている人々をアンダークラスと呼んでいた。また、スコット・ラッシュは、工業から情報産業への転換が進むなかで、労働者階級から構造的に下降移動させられた人々が新たな階級、すなわちアンダークラスを形成していると論じている。またジョン・ケネス・ガルブレイスは、今日の先進社会では「機能上不可欠なアンダークラス」が形成され、誰からも嫌がられる辛い仕事を低賃金で引き受け、都市の快適な生活を支えていると指摘している。」(P76~77)
 本書では、階級毎の特徴が述べられているが、本論考では触れない。ここでは、「格差縮小への合意を作るためにはどうすればよいか」との橋本氏の自問自答を紹介しておく。「資本主義経済のメインストリームに位置する三つの階級は、新中間階級は強固に、資本家階級と正規労働者はやや控えめにという違いはあっても、所得再分配に否定的な傾向が強い。これに対してその他の階級・グループ-パート主婦、専業主婦、旧中間階級、無職の人々は、アンダークラスの人々と同じ、あるいは大差ないほどに、所得分配を支持する傾向がある。また格差拡大の現実を認識することの効果は大きい。したがって、格差拡大の客観的な事実とその弊害に対する理解を広めていけば、所得再分配への支持を拡げていくことができるはずである。また自己責任論は、所得再分配への合意形成の妨げになっている。したがってこれに対して適切な反論を加えていくことも必要である。」(P256~257)「もし格差社会の克服を一致点とする政党や政治勢力の連合体が形成されるなら、その支持基盤となりうる階級・グループはすでに存在しているといっていいだろう。アンダークラス、パート主婦、専業主婦、旧中間階級、そして新中間階級と労働者階級のなかのリベラル派である。」(P301~302)
 
 日本の労働者階級の成立はヨーロッパ諸国とは大きく異なる。したがって、労働者運動の在り方もまた独自の道を探ることになる。国際的な経験の一般化・理論化は尊重しつつ、日本の歴史と現状に合致した方向性を打ち出す必要がある。
 「生活保護」申請にあたっての親族への問い合わせは、「出稼ぎ型労働」での家族回帰に原点があると考えられるし、家族が機能しなければ「自己責任」に転嫁していく。低米価を筆頭に農業だけでは生活できない小農家政策と農産物価格設定、家計補助に端を発した女性を典型とする低賃金政策、縁故採用企業別組合など労働政策にとどまらず、暮らしの多くの面に「出稼ぎ型」が浸透している。これらは「日本国憲法」で与えられた民主主義の枠組みを国民自身が生活の中に徹底していくことで克服することができるが、そのためには多くの艱難辛苦を経験するだろう覚悟が求められる。
 「非階級社会実現」は遠大な夢だが、橋本氏のいう「格差克服連合体」の実現は現実的可能性がある。そのための要素の一つとして、「前衛」を自称してきた政治勢力民主化が求められる。2021年9月の総選挙で野党統一候補の擁立に成功しながら、想像以上に国民的反発が強かったことに幾らかの反省は示しているようだが、「結党」100年目の節目に歴史的に総括し、新しい方向性を示すことが必要だ。最低限の線として、1959年7月の第6回中央委員会総会での決定=「同じく進歩と平和を愛しながらマルクス主義とは異なる立場にたつ人々とのあいだに、真剣な批判と刺激を与えあう場所でありたいと思う」という月刊誌『現代の理論』「創刊にあたって」の立場は、「党の規律違反」として廃刊を指示=の取り消しが求められる。当時、政治的に争っていた構造改革論との関係があると言われているが、異論があるからこその議論であり・合意であり・統一(戦線)だろう。この決定はその後も生きていて、月刊誌『文化評論』1981年1月号に掲載された「小田実上田耕一郎対談」をめぐって編集者が責を問われている。異論を唱えた知識人・文化人の排除は何回も繰り返されている。協力関係を破壊する自縄自縛を解くことが求められる。

 【追記】

 『社会学評論』1999年50巻2号に収録された橋本健二氏の「戦後日本の階級構造-空想から科学への階級研究の発展」には以下の前文が付されている。
「戦後日本では、大橋隆憲らを中心に階級構成研究が独自の発展を遂げたが、彼らの研究は、資本家階級と労働者階級への2極分解論や、労働者階級=社会主義革命勢力という規定など、きわめて非現実的な想定に立っでいたこと、また特定の政治的立場を前提とした政治主義性格のために、階級研究に対する数多くの誤解を生みだし、このことが日本における階級研究を衰退させる結果をもたらしてしまった。いま必要なことは、階級研究からこうした理論的・政治的バイアスを取り除き、これを社会科学的研究として再構築することである。理論的には、1970年代半ば以降の、構造主義的階級理論から分析的マルクス主義に至る階級研究の成果を生かしながら、フェミニズムの立場からの階級研究批判に答えうる階級構造図式と階級カテゴリーを確立することが求められる。実証的には、社会階層研究の豊かな蓄積を模範としながら、計量的な研究のスタイルを確立する必要がある。本稿はこうした階級研究の発展のための基礎作業である。」
 この辺りを本文冒頭で以下の通り詳説している。
「戦後日本において階級研究は、官庁統計を利用した「階級構成表の作成」という、独自の発展を示した。大橋隆憲(1971)が用いた階級構造図式と階級カテゴリー、すなわち「大橋方式」は、一時は「定説」(原1979)とまで呼ばれて多くの研究を生み、これらが階級研究に対する一般的なイメージを形成してきた。しかし現時点で考えると、大橋たちの研究には2つの重大な問題点があった。第1の問題点は、資本家階級と労働者階級への2極分解を前提とした階級構造図式をア・プリオリに前提したことである。「大橋方式」は、資本家階級、自営業者層、労働者階級を主要な3カテゴリーとするものだが、ここには(1)資本家階級と労働者階級の間に新中間階級のような独自の階級・階層の存在を認めない、(2)「旧中間階級」のような独立した階級の存在を認めず、農民・自営業者=自営業者層を、労働者階級と同様に「被支配階級」として扱う、という2つの顕著な特徴が認められ、総じて2極分解論的な色彩が強い。しかも、大橋がこうしたカテゴリー構成に到達した過程には、不明朗な点がある。大橋が最初に階級構成表を作成したのは1959年だが、この時点では彼は、資本家階級と労働者階級の間に、専門技術職、事務職、保安・サービス職からなる「新中間層」が存在するとしていた(大橋1959)。ところが大橋は、この後9年間にわたって包括的な階級構成表を公表せず、1968年になって突然、この「新中間層」を「いわゆるサラリーマン層」として労働者階級に組み込んだ、「大橋方式」による階級構成表を発表するのである(大橋1968)。こうした大橋の変化には、政治的背景があった。日本共産党は、1961年に新しい綱領を採択するが、その前後から労働者階級は専門・事務職まで含む広い範囲の被雇用者からなると規定し、これにもとづいて作成した階級構成表を発表していた。そしてその直後から、一部の「研究者」たちが日本共産党の階級構城表を擁護する立場から大橋を批判しはじめるのである(佐藤1964、三潴1966)。大橋の階級構造図式の変化は、こうした動きへの対応であった。つまり「大橋方式」は、「前衛党」に対する知的従属のもとで作られた可能性が大きいのである。第2の問題点は、多くの階級研究者たちが、作成された階級構成表を極めて政治的に解釈してきたことである。たとえば大橋の後継者ともいうべき戸木田嘉久は、階級構成の上で労働者階級が多数を占めているという単純な事実から、労働者階級の急速な集積は、それ自体、米日独占資本の支配に対してもっとも非妥協的にたたかわざるをえない、社会的勢力の増大を意味する」と結論する(戸木田1976:373)。ここには、日本資本主義の対米従属規定という、研究の外部に由来する情勢認識が自明視されている上、労働者階級がア・プリオリに反体制勢力だと仮定されている。こうした政治主義的な解釈は、1980年前後までの階級研究には広くみられた。そして階級研究はしばしば、人口の多数を占める労働者階級が必然的に闘争に立ち上がり、統一戦線を担うようになるはずだという、空想の領域にさえ入っていった。このような「研究」が、「階級研究」の全体的なイメージを作ってきたことは、階級研究にとってまことに不幸なことだったといわねばならない。そのことによって「階級」という用語は、社会科学用語として使用するにはあまりにも大きな政治的バイアスを背負ったものとなり、階級研究は特定の政治的立場に立つ人々のみによって担われる、社会科学上の異界と化してしまったからである。いま必要なのは、階級概念をこうした政治的呪縛から解き放ち、階級研究を空想の領域から科学の領域へと引き戻すことである。」
 こうした問題意識から出発して研究された最新の成果が『新・日本の階級社会』(講談社新書)だ。
 

「労働」の日本的形態考・その2 「出稼ぎ型」続

 大河内一男著『黎明期の日本労働運動』は明治・大正期の労働者創出と労働運動を対象とし、「出稼ぎ型」労働を析出していた。日本の労働者・労働運動はいつまでこの型に嵌められていたのか? 
 大河内一男隅谷三喜男編『日本の労働者階級』(1955年2月刊)は1950年頃までを対象にして研究を継続している。私の得た結論は、「1945年8月の敗戦後、様々な改革があったが、「出稼ぎ型」労働の骨格は残っている」だった。以下、要旨を紹介する。
 「労働者の生活の再生産が賃金収入プラスXによってはじめて行われるということにも、半プロレタリアたる所以がある」。「横断的な労働市場が欠如し、縁故募集や募集人による募集が優位を占めるのも、久しく住宅問題が社会問題とならず、これに代って賃労働拘置制としての寄宿舎問題が大きな問題となってきたのも、戦時中から次第に住宅問題が叫ばれるに至ったのも、職能別組合が形成されず、企業別組合が大企業を中心に形成されていることも、すべて以上分析した日本の賃労働の存在様式と関連している」。(P11)
「イギリスのように、十五世紀から始まる本源的蓄積期に、ほとんど大部分の独立自営農民を掃滅して十八世紀中頃には資本家的農業経営を確立した国もあれば、十九世紀末においてもなお広汎な小農民が、地主的な資本家的大経営と並んで存在し、農民分解が非常な勢で進んでいたような旧ロシアもある。」(P15)「わが国においては、資本家と賃労働者への農民層の両極分解、それに伴う農業における資本制経営の成立・発展-一言にすれば農業における資本制生産様式の確立がなかったのであり、戦後農地改革が行われたのちもこの点は変っていない。」(P16)「農業外に発達した資本主義の下に、小農的生産様式が成立し、維持され、今日に至っている」。「それは日本資本主義の資本蓄積のスケールが小さいこと、欧米より輸入移植した資本主義が、すでに高度な有機的構成をもつ資本であったこと、したがって労働力の調達が始めから限られていたこと」、「さらに根本的には、金融資本なるものは一般に、農民経済を破壊して農民を賃労働者化し、彼らを直接の生産過程に組み入れて搾取する産業資本的方法と併行して、農民を商品経済の渦中にひきいれて、これを流通過程において収奪するという方法を用いること」が重要な意義を持つ。「農村における労働力を零細な土地、わずかな財産にしばりつけ、そこに「自発的な」労働投下を行わせて剰余労働を取得するという方法が有利でさえある。」(P17~18)「日本における農民層分解の支配的傾向は、零細農経営が存続しながら、その農民家族が賃労働者-とくに農業外の商工業の賃労働者に転化するという形態をとる」=下降分解、「蓄積された資金をもって土地を買い寄生地主化し、さらに地主となったのちは小作料収入によって蓄積された貨幣を農業外に投じて産業資本化、金融資本化するという経路をとり、ついに脱農民化する」=上昇分解。(P18~19)
「昭和十四・五年当時の農村は「その労働力不足が単なる量的不足のみでなく、同時にその質的劣弱をも意味するものであり、いわゆる残存農業労働力は女子および老幼の残滓的劣弱労働力」となり、農業生産力の破壊にまで作用した」。では、戦後の変化は如何に。「ここに、商品生産農民の創設を企図した農地改革の必然性について注目する必要がある。」(P74)総独占資本が求める搾取形態は、農民からの直接搾取だけでなく、「労働者を通しての農民搾取」=「低労賃の基礎を農民が提供するような形態による搾取」=「低労賃→低米価(低価格農産物)」だった。創設されるべき自作農は、農産物の商品化を可能とする経営規模の農民だった。「そのために、農地改革は零細な農民、飯米農家には土地買収を認めなかった」。(P75)「いまや農民層はその商品経済化のゆえに商品経済を求めての兼業、出稼ぎ、他出をますます激化し、資本にとってはそれだけ収略奪の源泉としての労働市場を拡大していく。」「戦前において自小作、小作に集中的であった出稼労働はいまや一町未満層を中心とするにいたり、硬直した独占資本の雇傭にとってはその労働市場は農民層の下層からの枠を破って拡大され文字通り心身両面にわたる雇入選択の自由の好個の舞台と化している。こうして、いまや独占資本の直接的低米価政策と雇傭吸収力の硬直に挟撃されて、いわゆる農村における潜在的過剰人口は停滞的過剰人口の一部を形成するにいたっている。」(P76)
「農村からの過剰人口の流失は土地からの惨めな解放であり、押し出しであり、反逆のない退散でもある。農村、農業、農家との関係は切れるがごとく、切れざるがごとく、これこそ農民分解の矮小化された、変質した、ダラダラした性格に照応する集中形態に外ならない。それだけに、都市に集中した人口、労働力は以前のような還流状態をたどらず、都市社会のなかに深く沈殿していく傾向を一面では強めている。/都市集中の以上のような背景のために、いわば都市化も極めて不完全であり、不明確であり、一面では種々の糸を通して農村とのつながりをもつと同時に、他面では盲目的職業遍歴をたどることになる。農村からの遊離の不完全さは、(イ)賃労働者自身の土地所有、(ロ)非農家出身賃労働者の農業労働の手伝い、(ハ)農家出身賃労働者の予科的農業労働や、(ニ)極めて多くは送金などの形をとっている。と同時に、一般にわが国では職業移動=転職は著しく、とくに、農業、商業などへの職業移動はきわめて安易に行われて、収入の機会を求めてあてどもなき転換をくり返している」。注目すべき点は、「都市に集中した労働力の農村との結合形態の変化」だ。以前には「出稼ぎ型」として農村基点=農村経済の補助、だったが、「いまや、その基点は都市にあり、補助さるべきは」「低賃金自体」にあり、「農家からの仕送りさえもみられる」。「労働力交流における還流型から沈殿型への移行は労働力の型をして出稼ぎ型から、いわば「半農半工型」ともいわれるものに変貌せしめ、結合の比重を低賃金自体に転移せしめつつある。」(P77~78)
 「昭和二十四、五年の大量人員整理期に行われた、被解雇者のその後の行方」調査によれば、「職業的流動ないし移動の分散性と方向の限界性」が合して「階層的な落下を表現している」。(P110~114)
「昭和二十二年職業安定法が制定され、戦争中(昭和十三年)はじめて国営化された(しかしその場合も営利職業紹介所の並存はゆるされて居り、事実終戦後昭和二十一年までは例えば東京上野の駅近辺には古めかしいノレンを下げた「口入所」「桂庵」が店びらきをしていたことをわれわれは知っている。)日本職業紹介制度の執行機関だった強制労働力引出機関、「勤労動員署」は、この法律の制定につれ、その名も「公共職業安定所」と塗りかえられた」。(P124)『縁故』採用が支配的である社会では、「公共職業安定所」という近代的な通路は、いわば、トンネルにしかすぎないものとなる可能性を多分に持っている。表面は職安を通じている。けれどもそのまえに『縁故』のお膳立ては手ちがいなく終了」している。「あるいは、職安自身が、それの片棒をかつぐこととなる」。実際に、京浜・中京・京阪神・北九州の四代労働市場をみても、「求人の来る源は、規模別に見て、量的に三〇人未満の小企業で六三・三%となり圧倒的である。五〇〇人以上では、求人総数の一割にすぎない。」「要するに都市職安は、全労働市場の中の、きわめて片寄った一隅に座しており、そして全く半失業と考えられる職業の求人・求職の交換点に立って」いる。(P125~127)
 労働市場政策としての失業保険は昭和二十二年に制定されたが、この時期には、「徴用解除工」「「復員兵士」「引揚者」らが「インフレの過程で明日の食を求めはかない職業にやっとぶら下り終わっ」ていた。「不安定な職業とみじめな就労をそのまま放置し、それを雇傭の充分な形態と無理強いし、それからの解雇を保険で処理するという状態の下では」、失業保険は「不安定な雇傭を増す槓杆とさえなる。即ち資本はこれを利用して解雇を押しすすめる」。例えば、季節労務者の非保険金受給率が高く、「企業は低位賃金雇傭を更に失業保険でカバーしているのだ」。「現在の失業保険制度は、近代的な労働市場創設のためいわば何物をも果していないのである。失業保険のみで暮している人、そしてその保険金を貰って暮している中に職業を見つけてゆく人は、きわめて少ないのである。」(P128~131)
 支配の網の目の一つの表現『縁故』は、「窮乏化の体制の維持に役目をはたしていた」。「人たるに価する生活を営む権利を権利として規定されている現下において、保護請求者の負担をあらゆる遠隔の縁者を探ねてその方へ転化し、転嫁できぬ時は事実として保護は与えられず、子供を家族よりばらばらに引きはなし、一家離散の形で縁故のルートを通じ「強制」を以って縁者の下におくっていく」。労働への入口からして『縁故』による低賃金・低労働条件という負荷を掛けられ、貧困線上に浮上しかかると、『縁故』のぶら下りが重しとなる。「子供が職につき、楽になるべき」はずが、親が低賃金の「補充を請け負う」、逆に、低賃金であっても父や母を「扶養してゆかねばならぬ」。「全体として、収奪と搾取の二重三重の」「激しさ」。(P135)
 男性労働者が女性労働者を上回ったのは昭和7(1932)年で、昭和13(1938)年には62%となり、明治時代を逆転した。しかし、徴用工(臨時工)や通勤工(半農半工)などで男性労働者からも「半プロレタリアート」の刻印は消えない。(P151~152)
「大企業においては企業自身が労働者の教育に当り、いわゆる子飼いの労働者を養成」する。これが「縁故募集と結びついて、大企業労働者に一層「一家」的な意識を深めさせている」。(P158~159)「日本の機械工場の多くは修理工場として成立したので、作業が団体請負であり、作業内容がその都度変るので、永年の経験によってあらゆるケースに習熟することが必要となるのであり、ここに経験者の権威の基礎が存する」が、産業合理化の進展で、かなり変化してきている。「熟練労働の多くが、比較的単純な作業に分解し、機械工についていえば、いわゆる単能工が出現するに至った。彼等の間にはもはや古い職人的性格は極めて希薄であり、単純化され平均化された労働力の売り手としての、労働者たる面が著しく強くなっている。」(P162)「労働貴族」は本来熟練労働者の特権的地位を指したものであるが、日本では熟練工が社会的に形成されなかったので、その意味での「労働貴族」層は成立しなかった。」(P166)
「紡績工場の女子労働者は戦前から高等小学校卒が採用の一条件となっており、したがって、極貧農の子女は入社資格をもたなかった」。極貧農の子女は「製糸工場や織物工場に流れ、紡績工場には娘を高等小学に入れられる程度の貧農や中農下層の出身者が集ったのであり、この点は戦後さらに明確になり、比較的素養がよいということもあって、生活に余り困らない中農層の子女が歓迎されている。」「紡績工場はそれぞれ独自の募集基盤をもっているのであり」、「特定の数県から労働者を募集しているのである。このような地縁的関係を背景として職安と連絡員が活動しているのである。」(P172)「農家の過剰人口の中から流出して来る家計補助的な、嫁入前の一時的出稼労働者を基盤とし、これを高度の設備をもった工場で陶冶し、さらに資本が直接支配している寄宿舎において管理することによって形成される労働者―これが大企業の女子労働者の典型である。」(P174)
「労資関係が明確化し、社会的意識の成長した労働者は労働条件がより劣悪な中小企業において蓄積されずに、大企業の内で陶冶され蓄積されてきているのである。労働力として優秀な賃労働は、資本主義社会においては、階級としての労働者という点でも中核足らざるをえないのである。」(P175)しかし、「大企業においてさえ、階級としての労働者の世代的な蓄積は仲々行われないのであり、繰返し農村から新しい労働者が補給される」。「大企業自体も二代目の労働者を歓迎しない。」(P179~180)
 江戸時代末期には、幕府・藩の命令によって「築城その他の土木事業などに従事する人夫として農村から都市に集められてきた者の中には、年貢の強徴によって貧窮化した農村に帰ろうとせず、都市にとどまって浮浪遊民の徒となる者が多くなってきた。幕府はこれにたいし帰農を奨励する布令をたびたび出したが、その実績はあがらなかった。そして封建的支配者の寄生的消費都市の発達にともなって生ずる土木建築、運輸その他の事業のために人夫を供給する日傭座、日傭宿、口入屋などがこれらの浮浪遊民の徒を基盤にして設立された。この日傭座は座の特許権を有する夥長が封建的支配者によって任命され、日傭夫はこの夥長の鑑札を帯持しなければ仕事をしてはならないという封建的なギルド的組織であった。それは防火夫、脊負夫、肩担夫などあらゆる日傭夫を網羅し、一番組、二番組などというように日常は町火消をおこなう組という組織があって、組頭と日傭夫との間には親分子分関係があった。これらの夥長や組頭、親方が、不徹底なブルジョア民主主義革命におわった明治維新によって、主として資本家のための労務供給業者または請負業者となったのである。」(P221)「当初アメリカ占領軍は日本人労働者を雇傭するにあたって戦時中の労務報国会を利用した」。労務協会と改称したが、「労働ボスに労務供給業をおこなう恰好の場をあたえたことは明らか」だった。労務協会は昭和二十(1945年)年12月31日に解散させられ、「占領軍に労務を供給する責任は日雇勤労署に移された」が、この組織は「戦時中の国民勤労動員署」が改名したものでしかなかった。(P227)「半封建的な組制度=労働ボス制度は、戦後アメリカ占領軍当局と日本政府がこれを廃止する命令を出したとはいえ、実際上占領軍や政府自体によって利用され温存された」。また、「民間企業が日雇、臨時工を雇用する過程でも温存された。戦後の大量失業の中にあって」「民間企業の日雇労働を失業者に紹介できたのは、やはり勤労署よりもむしろ戦前から労務供給をおこなって民間企業に「顔」のきいている組の労働ボスであった。しかもこの労働ボスの中には当初労働組合労務供給のためにつくってこれを支配したものが少なくなかった。」(P229~230)1947年12月に職業安定法が施行され、3ヵ月後には組の自発的解散が予定されていたが、当然のように解散は進まないため、労働大臣は指示を出したが、その結果、一方では、「労働ボスまたはその手下が労働者とともに会社の直用となり、その中で労務供給や中間搾取」を続け、他方では、「労働ボスが組を会社という名前に変え、形式的に職安を通すだけで労務供給や中間搾取」を続けた。(P232)
アメリカ占領軍当局の「民主化」政策の一環として日本政府のおこなった労働基準法職業安定法による中間搾取、労務供給業の禁止は、かえって半封建的な組制度=労働ボス制度をいんぺいされたかたちで温存させたのである。しかも朝鮮戦争後は、経済軍事化の過程で、この半封建的な組制度が、日雇、臨時工において公然と復活されはじめた。これは根本的には、戦後アメリカ占領軍当局の指示に基く「農地改革」がかえって農民を零細な土地にしばりつけ、土地取上げを通じて地主または自作化した耕作地主の農民にたいする封建的支配を維持し、農業だけでは生活しえなくなった貧農または中農の次三男を都市に流失せしめたからであった。」(P236)
「農地改革は、日本の農地を半封建的な諸関係から解放し、農民の生活水準を高めるためといわれたのであったが、一部の地主はぼつ落し、中農層の生活水準を引上げる効果はあったにしても、基本的には農村における地主勢力は依然として強大であり、半封建的な生産並びに社会関係はなお強靭に残され、農地改革以降の諸々の政策はそれらを再編成したにとどまる。日本労働者の最大の供給源は今なお農村にあるが、厖大な貧農層は農地改革の過程を通じて拡大再生産せられ、低米価供出制度・シェーレの拡大等を通じて強化されている。これら農民の植民地的生活水準は、日本の労働賃銀ひいては労働者の生活水準を押し下げる基本的な要因の一つとなっている。農村には、戦前以上に潜在的過剰人口が停滞し、都市に対してたえず貧困な労働者層を送りこんでいるが、このような基盤が存在する限り、日本労働者の生活水準がヨーロッパ的水準に高められることはおこりえない」。(P292~293)「低賃金防止策の一つに他ならない法的最低賃銀の設定」へのサボタージュ、日本全体の賃金水準を低める重要な要因である「婦人労働者の極端な低賃銀」。(P294)
「労働者意識の特殊性格は、すべて日本の賃労働が、出稼ぎ型のそれであることに由来しているように思われる。農家経済と結び付いたさまざまな形態での出稼ぎ労働は、それが続いている限り、決して本来の鮮明な職業意識や職能意識を生み出すことはないであろうし、また、職業意識をおのれのうちに含みつつ、階級的立場にまでそれが高度化され、脱皮されて行くことも考ええないであろう。」(P331)

 

 大河内氏の著作からさらに5年程度進んだ状況を見ようとして、堀江正規著『日本の労働者階級』(1962年3月刊)を求めた。堀江氏の理論的立場は、大河内氏とは別のはずだ。
「一九六〇年の国勢調査で、日本の労働力人口中、「雇用労働者」の占める比重がはじめて五〇%をこえた」(一九五五年国勢調査では四二・八%)。51.3%となった。堀江氏は諸要因を増減して「近似的な数値」として妥当としている。(P3〜4)
 1959年5月に作成された雇用審議会「完全雇用に関する答申参考資料」に基づくと、「日本には約八〇〇万人の相対的過剰人口がある。これは国勢調査の「労働力人口」についていえば五人に一人以上、同じく「雇用労働者」についていえば二・六人に一人の割合である。」(P73〜75)
「明治初年の西欧工業の移植期には、日本には二つの労働時間の原型があったようにおもわれる。ひとつは在来の職人や工場制手工業からうけつがれてきた「七字出五字引」とか「日出から日没まで」というような自然日に順応する型であり、もうひとつは、官営工場や民間機械工業の一部にみられた西欧直輸入の八-九時間労働日である。」「この二つの原型は、たちまち支配的な意義をもたなくなる。」「紡績・製糸資本は」、「生産手段の二十四時間稼働への要求に結び」つけた。「戦前の日本では、工場法は保護職工(婦人・年少労働者)を、成人男子労働者以上の長時間労働-十一時間労働日、および十二時間二交代制の承認-で「保護」する破廉恥をおかすことになり、その影響のもとに、一般的な標準労働日もついに制定されることがなかった」。(P81〜83)
「日本農民の中心作物である水稲の反当たり収量は、一八八三年以後の六十年間に僅か五〇%の上昇にも達しなかった。」「農業生産を規定するこのような条件は、日本の農業人口の主要な構成部分である貧農層の生活を都市の勤労者をはるかに下廻る水準におとしいれた。」「日本の農家戸数の六五-七〇%は一ヘクタール(一町)以下の狭少な土地を耕していた。彼らは日本の農業生産を基本的にになう人々だが、彼らのうちのかなりの部分は、都市の要生活保護者と同様な生活をし、農閑期になればいろいろなひろい仕事に出かけ、娘や息子が成長すると、親だけの契約で、紡績、製糸、おりもの、たんこう、土工、売笑婦などに売りとばした。」「(農民出の労働者のすべてを「農家の家計補助的な出稼ぎ型」というひとつの型にはめこんでしまうことには疑問をもつが、-貧農のプロレタリア化、労働者階級への移行はやはり進行するから-鉄道、通信、鉱工業の諸部門などに、いわゆる「半農•半工」的な就業形態が存在しつづけたことの意味は、やはり小さいものではない。)」「農地改革以前の日本社会では、農民的な生活様式がー彼らの生活慣習と生活要求が、日本社会の中で大きな勢力をもっていた。とくに労働者は、この観点からいうと、しばしば「菜っ葉服の貧農」ではなかったか。」(P98〜101)
「日本資本主義の紡織部門の生産額が金属・機械両部門の合計額に追いこされるのは、日中戦争開始の直前である。(表44)そして、金属・機械労働者の総数が紡織労働者の総数を追いこすのも(表45)、製造工業における男子労働者数が女子労働者数を追いこすのも(表46)、日中戦争の開始によって、紡織部門の発展が頭打ちになった以後のことである。」
 戦前と戦後の明確な区別。①労働者階級の構成の変化:「労働者階級の社会的勢力とその影響力の増大は、一九六〇年の国勢調査で「雇用労働者」が史上はじめて労働力人口の五〇%をこえたことにしめされているが、その内部の質的な構成も著しく変っている。」「従来は労働者階級の外におかれていたような、技術的インテリゲンチァ、事務労働者などの一部を、資本が新しく導入した、拡大された総生産機構のなかで労働者階級の一部に合体させてしまう傾向をともなっている。」「労働者階級は生産過程の中で、ヨリ高い技術とヨリ激しい労働強度を要求されて、ヨリ高い生活様式に移らざるをえない」。「こうして、資本主義的生産の飛躍的な発展によって生みだされ、伝達される新しい生活様式がおそかれはやかれ、また多かれ少かれ、小生産者的・農村的な制約をのりこえて中小企業労働者や農民の世界にも浸透する。今では、労働者が「菜っ葉服の農民」なのではなく、逆に農民が「デニムのズボン」をはいている。」「新しい生活様式の普及が、そしてまたその社会的な強制が、現実的な生活水準・賃金水準の低位への強制を前提しながら、しかもいや応なしに拡大されることにある」。②労働者階級の労働力発達費の変化:「労働者とその家族構成員の教育費」。「子弟が義務教育だけで就業コースに入ってゆく場合と、男も女もすべて高校卒でなければ、事実上二代目の労働力になることができないという場合では、「家庭革命」といってよいほどの変化がおきることはあきらかである。」「新しい生活様式の浸透が、「弾力性のない支出」の競合を加速度化させている」。(P123〜132)
「日本の労働者階級が生活困難を幾分でも打開するための妥協的な方法として-さし当りすぐ目に見える範囲で-取り上げざるをえない諸形態は、超過勤務(および請負制度のもとでのノルマを超える労働)、連続出勤、休日出勤、そして最後的には借金である。」「超過労働が、むしろ労働者家族の家庭内からの「要求」であるかの観を呈するまでになっていることである。そして家庭内職・家庭菜園・子弟の新聞配達・新興宗教による生活指導等々が、労働者本人の勤労意欲の不足を「反省」させる。」(P137〜138)
 国鉄労働者の実態調査からの結論。「生活上の困難を、多少とも緩和するための、妥協的な」解決方法。「ひとつには、半農・半工」といわれた農家経済との抱合関係であり、ひとつには家族労働力の賃労働者化である」。(P148)
「日本資本主義にとっては、低賃金で利用できる広範な婦人労働が、なんといっても資本主義的搾取の広大な沃土になっている」。「資本の無制限の蓄積要求にささげられる低廉な婦人労働力は、農村と都市の窮乏化した勤労者家族のなかから「家計の圧力」によって排出される」。「婦人労働の増大」が「男子賃金の低下の方向に作用せざるをえない」。(P150〜152)だ。

 

 「日本の労働者階級」の現状については大河内グループと同一の見解だ、といえる。敗戦・占領でのある程度の社会改革を経て、サ条約下で独立し1960年まで「出稼ぎ型」労働の影響を引き摺っていたのなら、その後は大きな社会的変化は起きていないから、2020年に至っても労働諸関係に深く刻印されたままだと見るのが自然だ。
 さて、資本主義社会では生産手段の所有・非所有で社会的所属が大きく区分される。その一方が、生産手段を所有する資本家階級(ブルジョアジー)であり、他方が労働者階級(プロレタリアート)だ。従って、この区分では個人の意識は問題とされず、逆に、社会的所属が個人的意識を規定することになる。すると、私が抱いてきた欧米と日本との労働観の相違は、社会的所属の区分され方=労働者階級の創出にかかわる歴史的事情がそのまま表現されていることになる。日本の労働者関係における「出稼ぎ型」の刻印は非常に深いのだ。同様な意味では、米国における「人種と民族」が階級関係に深く複雑に影響しているといえる。

「労働」の日本的形態考・その1 「出稼ぎ型」

 現在の私の問題意識は、「北欧社民的」労働観と「日本的」労働観との質的差異とその歴史的理由にあるが、労働運動と労働観とはそれなりに関連があろうと考え、大河内一男著『黎明期の日本労働運動』(岩波新書・1952年10月刊)を購読した。

  ●「出稼ぎ型」労働の規定
 著者は「はしがき」で言う(以下、旧字は新字体に改める)。「本書は明治時代における労働運動の成立と発展とその解体とを書綴った。」「この時代の労働運動を形作っている要因やそのたどった運命は、そのまま大正以降今日に至るまでの労働運動を制約し、それに一つの型を与えている。その意味で、戦後の労働運動を理解するための有力な手がかりとして、明治時代の労働運動の訓えるものを振りかえってみる必要がある。」
 「序章 日本の社会と日本の労働」に本書の要旨は叙述されている。
「いま日本における賃労働の型を便宜上「出稼型」と呼んでおこう。これは言葉の狭い意味での出稼人を意味するものではなく、賃労働の提供者が、全体として、農家経済と結びついた出稼労働者的性格をもっている、ということである。」「日本の賃金労働者の圧倒的部分を占める女子労働者=「工女」たち」は、「貧農の娘たちであり」「親元の農家の窮迫した家計を補充する意味で、二年または三年の年期をもって」「嫁入りまでの一定期間を、遠隔の工場へ、それも主として綿糸紡績、織物、生糸工場などへ、出稼労働者として流出する。」「定められた契約期間が満了すれば、彼女たちは例外なしに郷里へもどり、そこで結婚し、農家の主婦としての生活がはじまる。そこからが彼女たちにとっては、本当の生涯なのである。」「男子労働者の中心である工場、鉱山、交通、その他の賃労働についていえば、彼らの大部分は農村における過剰人口の流出部分からなっており、所謂「次三男」がその中枢を占めている。」「好景気の時は農村から流失して工場地帯や鉱山に職を求め、不況に遭遇して職場を喪って再び農村に帰還する。」彼らは、「農民として農村にいるのではなく失業者として農村に寄食するのである。」「景気の上昇下降につれて、次三男によって表現される農村の過剰人口は、不断に流出流入を繰りかえすのであって、」「日本の農村は、過剰人口や失業人口に対する無限の深さをもつ貯水池のような役割をつくして来たといってよい。」男子労働者の場合は、「工場地帯で比較的安定した雇用のチャンスを掴まえようとし」「幸運な部類は比較的早く目的地のどこかへ橋頭保を築き、一家を構え、都会居住者としての生活をはじめる。」(P4~5)
「日華事変(※日中戦争、1937年7月7日盧溝橋事件に始まった。)以後における戦時経済の急速な展開は、農家経済を全体として、軍需産業の生産拡充の中へ巻き込んでしまった。京浜地区や京阪神地区のような巨大な旧工場地帯の生産拡充だけでは足らず、戦時中の巨大工場は、労働力の調達その他の立地条件から、多くは地方とりわけ農村に建設され、数年ならずして、いくつもの巨大な新興工場都市が出現した。」「賃労働は、工場の周辺何キロかの農村から、通勤工として調達された。」「農村における多数の過剰人口は、農家経済とその家計の中に依然として根を下したまま、しかも極めて容易に賃労働としての外貌を呈するようになる。彼らはしばしば「半農半工」などと呼ばれ、また農家経済に重点をおいて「職工農家」などと呼ばれた。」「彼らの賃金労働者としての再生産が農家経済から切り」離されなかった。これも、「出稼型労働の一亜種であり、とりわけその戦時型であると考えてよい。」(P5~6)
「イギリスの場合には、近世初頭から、十八世紀の後半に至って産業革命の幕が切っておとされる頃までに、零細農民は最終的に、一家をあげて、農村から流出してしまっている。」「「農民離村」はやがて工場地帯における賃金労働者の結集であり、賃金労働者の定着と蓄積とであった。」「数代を経て、次第に工場地帯における所謂近代的「労働人口」なるものが、比較的安定した定着性のある社会層として蓄積されてゆき、またそれは代々再生産されていく。このような場合に、はじめて、産業革命の鉄火をくぐりながら、近代的な労働階級が、ひとつのまとまりのある社会層として、また強靭な組織や階級意識をもつ社会層として、つくり上げられてゆくのである。」(P7~8)
 日本の場合には、「所謂「農民離村」が本源的に遂行されないままに商品経済の中に巻き込まれざるを得なかった農家経済は、その窮迫と過剰人口の圧力から脱れる手段として、ひとつには全国の農村に拡がった農家の副業による現金収入に、またひとつには、ここで問題となる農家経済の中からの、さまざまな形での出稼労働者の送出に、血路が求められた。従って日本の賃金労働は、男子女子を通じて、農家経済の中からつくり出され、一定期間賃金労働者として活動し、再び旧の農家経済の中に還流する。」「工場地帯における定住性や定着性は、日本では、著しく希薄なものになり、工場地帯に住みついて、そこで労働者家族として再生産され、その地帯における労働条件や賃金や住宅やが、彼らの生存のただ一つの支柱であるというような労働人口が、安定した社会層としてつくり出され得ないのである。農村と工場地帯との間には、人間のはげしい流動性がみられるばかりでなく、重要なことは、この場合には、精神的にも流動性が高い、ということである。その日その日の賃金だけが一家を何人かを抱えた労働者の唯一の収入で、それ以外に鐚一文の副収入もなく、また、まさかの場合の逃げ込み場所や寄生の日常でもない、といったような都市プロレタリアは存在しない。賃金一本を頼りに工場地帯で背水の陣を布くのではなく、日本の労働者の場合には、農家経済や出身農村への還流や、それへの直接間接の経済的依存が、彼らの生活全体に特殊な色調を与えている。このような、出稼型労働に負わされた著しい特徴が、日本における賃金労働者の「低賃金」やその他一切の労働条件を、労働市場の形態を、労働組合その他の労働者組織の型を、そして特殊な労働者意識やその「エートス」を、総じて明治以来八十年をつうずる労働問題の一切を、その日本型を、つくり上げてしまったのである。」(P9~10)
 「低賃金」とは、外国に比較して「低い」という意味だけではない。「近代資本主義における賃金の本来の内容、すなわち労働者家族の再生産費用の保障という意味での賃金ではなく、ただ僅かにひと握りの生活補給金、または家計補充的賃金にすぎない。」「労働力は商品化しておりながら、それが出稼型的な制約を受けているために、対価たる賃金は、近代的な範疇として成立し得ない。」(P10~11)
「労働者がその出身の農村から最終的に放逐されないで、農家経済の中にいわば片足を突っ込んだまま賃労働者化し、また産業の発展につれて都市における定住人口が増加した場合にも、工場地帯における本来の蓄積分が比較的希薄であり、景気の変動に伴ってやがては出身農村に還流し、農村における滞留人口を形成するのであるから、期間の長短はあり、また出稼距離はさまざまであっても、定着した「労働人口」の蓄積や再生産は存在しない、ということになる」。これは「統一的な労働市場の成立を妨げている根本的な理由」でもある。「労働市場で労働力が合理的な仕方で募集され調達されるのではなく、すべて個人的な「縁故」をたどって行われることになるが、そのことは、自ら労働条件を低め、労資関係を身分的雰囲気の中におしこめる端緒ともなり、また労務の調達における頭はね制度やボス制度の介入の原因ともなる。」「労働市場が形成されなければ、労働条件もまた縦に寸断され、同一職種についての労働条件や待遇すらも、企業の異るにつれて異ることになる。」(P11~12)
「統一的な労働市場が形成され難いという事情は、労働条件の統一化やその引上げを目的とする労働者組織の発展を阻害する。労資関係が「委託」や「縁故」で結ばれるかぎり、企業間における労働条件の凹凸は容易に解消しないし、従って、労働組合の結成や活動は、個別企業を超えた横断的なものに伸びないで、精々企業別にしか作られないことになる。日本で「企業別組合」が圧倒的な比重を占めている秘密はここにひそんでいる。」「労働組合組織は、資本主義産業の発展に伴って、同種職業間の横断的組織として個々の企業の枠を超えた大衆組織として横断的に発達するものである」。職業別の労働市場ができ上がることで、「賃労働と言う商品は、はじめてその適正な価格で集団的に取引することができ、労働組合は、その集団的な売手の組織として、労働市場をコントロールすることができるようになる」。(P14~15)
「日本の場合には、労働組合の基本単位は企業別・資本別・経営別にでき上がり、職業別の横断組織としての組合は存在せず、労働組合は、経営体の外部の労働市場とは無関係に、経営の中に閉じ込められている。だから日本の組合は、経営内的存在という色彩が強烈であると同時に、他面では、職業別の横断組織を飛び超えて全国的連合体として階級的組織の立場で闘争を開始する。」(P16)
 工場地帯に定着=定住する安定した「労働人口」が存在しない日本の場合には、「流動性の高い出稼型の労働者や半農半工的通勤工や、都市における浮浪層の堆積は、労働運動を、労働条件の漸次的な改善や合法的議会主義に結びつけないで、つねに無政府主義的な夢想やサンジカリズム的な実力行動に押し流してしまう。明治から大正へかけて、総じて大戦前の日本においては、短期出稼の女子労働者は、殆ど一貫して無知と無自覚のうちに、個別資本への身分的隷属のうちに埋没し、ただ僅かに重工業=軍事的鍵産業の内部に結集された少数の男子労働者だけが、労働組合を結成することになったが、それもやがて一部の急進分子の騒擾的活動のうちに壊滅してしまった。圧倒的多数の女子労働者=「工女」の無知と少数の先端的男子労働者の急進的意識との奇妙な組み合わせ、そこに、戦前における日本の労働者意識の特殊性があった。」(P17~18)
 以下、大河内氏は歴史的・具体的な活動を叙述していくが、その結論は、「労働階級がまだ職業別組合をつくる気力や自覚もないのに、社会主義イデオロギーは、大衆からはなれて、一部の職業的煽動家や知識層の所有になって、ますます観念化し、自由に、思う存分急進的になった。」(P191)そして、1910(明治43)年夏には「大逆事件」が起こされた。左派幹部は「赤旗事件」(1908年)で下獄中、幸徳は孤立状態だった。「当局の弾圧ぶりが左派の急進分子を著しく刺激したこと」、また「何らかの機会に「無政府共産」を信ずるものを一挙に掃討しようと政府が待機していたこと」が、事件発生の有力な動機だった。(P196)「多数の地方同志が一挙にこの事件の中にまき込まれてしまったことは、、その後の社会運動を窒息せしめるのに役立った」。(P199)1911年1月18日、12名の死刑と12名の無期懲役を判決。
社会主義者または「主義者」は、それこそ不逞の徒輩として世間から取扱われた。明治末期においては、それはもはや恐怖の対象ではなく、蔑視の対象であり嘲笑の対象であった。」(P212)
「労働問題が合理的な形で適時に処理されず、常に警察的弾圧によって支配階級の既得利益を擁護しようとする結果、問題は常に鬱積され広汎な社会問題として改めて一層深刻な形で解決を逼るようになる。」「労働問題は、狭義の労働立法という形においてはもちろん、社会立法としてもほとんど手がつけられぬままに、日本は早くも植民地帝国への膨張政策をひたむきに強行するようになる。」(P220~221)
「巨大紡績工場における福利施設、巨大軍需工場における共済組合は、一面で、「原生的労働関係」における労働力の食潰しと磨滅に対する恐怖によって促され、また他面では、社会主義イデオロギーの浸潤を防圧しようとする意図によって鼓舞せらたものであった。」「これらの施設によって、労働時間や労働賃金を根幹とする労働条件の原生的形態が排棄されたわけではなく、むしろこれらの低劣さを固定化した代償物と考えられ、社会政策立法の実施をサボタージュする良き理由としてしばしば経営者側によって利用せられた」。「これらの施設の発展に伴って、労働組合の組織は、意識無意識のうちに、いよいよ経営から排除されていった。」(P203)
 工場労働者総数=1896(明治29)年:43万4832、1900(同33)年:42万2019、1905(同38)年:58万7851、1910(同43)年:71万7161、1912(大正元)年:86万3447。(P204~205)
  ※日本の総人口は、1896年:4199万2千人、1912年:5057万7千人(インターネット「帝国書院」統計資料)、従って、工場労働者比率は1.04%、1.71%だった。
 
  ●「出稼ぎ型」労働概念をめぐって
 大河内一男氏の「出稼型」労働論の土台には、「日本では労働者は存在しても、労働者階級としては未成立だ」という歴史認識がある。英仏などでは資本主義化への道程が長く、エンクロージャー(15世紀末~19世紀初)などで農民の「挙家離村」が促進され、都市に流入・貧民化し、福祉の対象となるところから始まって、やがて「労働力以外の何物も持たない」階級としての労働者が意識され組織化されていく。日本では、この過程が存在せず、農村と切り離されないまま、「余剰労働力」「生活費補助労働力」として活用された。従って、好不況で農村との出入りを繰り返すことのできる「経済の調節弁」となった。この構造は敗戦後も引き継がれ、現在に至っていると言ってよい。すると、問題は、農村人口が急減し、賃金労働者が国民の多数になった時期に「労働者階級」が存在したのかどうか、ということになる。労働者は存在しても「階級」としては組織されていない、という状況はあり得るからだ。そもそも「階級としての労働者」についても検討する必要がある。
 そんなことを考えながら、ネットで「出稼型労働」を検索したら、幾つかのPDF論文がヒットした。以下、発表年が古いと推定した順に要約する。
 
 「所謂「出稼型」労働について―労働運動に関する大河内理論批判」栢野晴夫 「社会労働研究」1955年11月
 大河内理論批判はやはりすぐに出ていた。その主要点は、①「出稼」を農民層分解の視点から扱っていない=農村プロレタリアート・半プロレタリアートの持つ革命的エネルギーを正当に評価していない、そのエネルギーを発揮できる条件をこそ検討すべきだ、②大河内理論では、日本に近代的賃金労働者が存在しないことになる、に絞られる。
 ②が基本的論点だという点で、私とは共通している。ただし、この小論では、「日本に労働者階級が存在した」とは論証されていない。

 「農業政策の破綻と出稼ぎ」林信彰 1975年頃
 1960年以降の高度成長期での出稼ぎの特徴。
①「農家就業動向調査」などによると、出稼ぎ農民数は、1960年に17万人、東京五輪前年63年に38万人、米の生産調整が始まった70年の翌71年に34万人。実数は倍以上との見方もある。
②71年の34万人のうち96%が男性、また世帯主59%、後継者29%。年齢も当然あがり、男性の67%は35歳以上。35歳以上は、58年21%、61年30%。
③全出稼ぎ者中の経営耕地面積1.5ha以上の農家の比率は、58年8%、62年15.3%、71年26%と、上層農家へ広がっている。
④出稼ぎ給源地の限定化。秋田33.7%、青森32.9%、山形29.8%。全体では、東北53.4%、九州16.5%。
⑤出稼ぎ期間の長期化。71年には4ヵ月以上が78.6%、6ヵ月以上でも32%になる。
⑥建設業が多く、71年には64.5%。
⑦72年5月の調査では、出稼ぎ者の64%には継続希望がある。
 歴史的経過。
「戦後、農村は都会からの帰農者、海外からの引揚げ者を多数かかえこんだが、朝鮮動乱に端を発する都市の労働需要の高まりのなかで、帰農者の多くは都会へ還流し、農村からの季節出稼ぎは、戦前タイプのものが縮少された形でつづけられた。米単作地帯であっても、冬期にはさまざまな農作業があり、副業収入もあったために、一家の中心的な労働力が出稼ぎに出ることはあり得なかった。」
 1955年以降の「エネルギー革命」「流通革命」「消費革命」で炭焼き・藁工芸品の市場が消え、零細農家が出稼ぎに出る。中堅農家は、政府の推進する「農業経営多角化・複合化」政策で、乳牛・肉牛・養豚・養鶏・果樹などに取り組んだ。
 1960年以降の貿易自由化で農産物価格は低下、競争のための機械購入で家計が圧迫された。61年の農業基本法は、経営規模拡大・生産性向上を目指したが、農村では兼業化に傾斜した。稲作技術は工業化され、機械力・化学肥料・農薬で日曜百姓が可能になった。63年以降、中堅農家も出稼ぎに傾斜した。70年以降の総合農政=「生産調整」「米価据え置き」で、大規模農家も出稼ぎに出、零細農家は安定兼業化した。
  ※出稼ぎは、労働問題だけでなく農民問題でもある。日本の生産力の根底に関わっている。
 
 「労働市場の需要側からみた大正中期から昭和初期における出稼ぎ労働の特質―その予備的考察」松田松男 1980年頃?
 出稼ぎの歴史的時期=①江戸中期以降の地主手作り経営の崩壊により、奉公人層が手元から解放されるもの、②明治から昭和初期に至る出生数の急増が地主制の下にある農・山村過剰人口の堆積を生み、二・三男、娘といった家計補助的労働力のはけ口となるもの、③戦後の経済における高度成長期において、建設業を主とする労働力需要の喚起によるもの。
 「日本型労働市場」は第一次世界大戦終結を転機として成立する。それに対応し、農村労働力の流出形態も「出稼ぎ型」から「離村定着型」に移行する。
 
 「「出稼ぎ」研究の理論的前提―当事者の論理と社会的性格の検討を通じて」矢野晋吾 「日本労働社会学会年報第11号・2000年」
 高度経済成長期まで盛んだった「伝統的出稼ぎ」。「出稼ぎ」に本人も周囲も抵抗なく自発的に出る。「賃労働型出稼ぎ」との違い。「伝統的出稼ぎ」の特徴は、母村や「出稼ぎ」先との緊密な社会関係にある。通過儀礼的あるいは年齢階梯的な意味もある。
 
 「高度成長期の労働移動―移動インフラとしての職業安定所・学校」攝津斉彦 「日本労働研究誌」2013年5月
「1955年から1973年にかけて生じた高度経済成長によって、日本の労働力には二つの大きな変化が生じた。ひとつは労働力の産業構成の変化である。「民族大移動」とも形容される都市部への激しい人口流入と、農業から非農業への急激な労働力の移動が同時に生じたところに、高度経済成長の一つの特徴がある」。①拡大した労働需要を賄い、②流入世帯が耐久消費材需要を生み、③地域間経済格差を縮小させた。
 全国の就業者に占める、第一次産業農林水産業)従事者の比率は、1955年に38%、1965年に23%、1975年に13%。戦前の水準:有業者に占める第一次産業有業者数は、1906年に62%、1920年に54%、1930年に50%、1940年に44%。
 日本の職業紹介事業は、口入屋・桂庵などの呼称で古くから存在し、明治以降の工業化で重要視されたが、やがて人身拘束などの不正行為が問題となる。1911年の工場法制定後、公営の職業紹介が模索され、東京・大阪両市に公営職業紹介所が設置された。第一大戦後の恐慌を受けて、1921年には職業紹介法が制定され、市町村営職業紹介所の設立と中央職業紹介所に統轄させようとしたが、広がらなかった。1927年には営利職業紹介事業取締規則が施行されると、公営職業紹介所が伸長し、公民営の棲み分けが成立した。国家総動員の名目下、1938年に職業紹介法が改正され、職業紹介事業は国営化された。1930年頃までの民営紹介は公営より高効率のマッチングを示していた。①求人側との長期的関係があり、求人情報を蓄積していた、②求職者の身元調査を実施した、③求職者と求人側との情報伝達を促進した、④就職後に問題が生じた際には仲介するなど雇用関係にも影響力があった。
 企業側から見る。官営八幡製鉄所の史料では、ホワイトカラー(事務職員・技術者層)は、1900年以前は旧士族が諸職・職場を流動していたが、それ以降、1880年代に教育された平民が台頭し、1901年には新規採用者の学歴目安が制定された。技術者の採用については1897~1919年頃で、中途採用と高等教育機関への紹介依頼による新規採用を実施している。1925~1933年頃には、学校への紹介依頼と社内選抜を組み合わせていたという。1930年代には、工業・商業学校の校長・教員の積極的な就職斡旋活動・勤務状況調査などで学校紹介就職率が上昇したという。
 日本鋼管川崎製鉄所のデータでは、戦間期ブルーカラー雇用は、縁故による採用がほとんどであった。但し、職種別で異なり、①旋盤工・鋳造工ら職人的熟練労働者は地理的にも広い範囲で労働市場が成立し、必要に応じて縁故により確保できた、②製銑工・圧延工ら体力が必須なプロセスワーカーはOJTによるキャリア形成が行われ、遠隔でも馴染みのある農村地域から新人を集めていた。
 1947年制定の職業安定法は、職業選択の自由をうたいながら、戦後復興のための労働力の「調整」「計画」に言及し、新制中学卒業者に特別な需給調整制度が課された。1949年には職業安定法が改正され、中学校と職業安定所が連携して新規中卒者の職業紹介業務を実施する。1950年には職安経由就職率は15%だったが、高度成長が始まった1959年には45%になった。1961年には、労働省は新規中卒者の「需給調整要綱」を知事に通達し、業種別求人倍率が地域間で一定になるよう採用希望地を強制的に変更させたり、逆に、新規学卒者に対して希望職種・就職地を指導したりしていた。
 しかし、高校進学率の急上昇で中卒者は激減し、大企業でも定期採用による養成工へと転換したことで、企業の新規採用は高卒者へと傾斜する。高卒者の職業紹介では、高校側の戦前からの経験の蓄積が生き、職安が介入する余地はなかった。
 
 「日本型企業社会の現在、過去そして未来」宮坂純一 「社会科学雑誌」2014年12月
 日本企業の似非ゲマインシャフト=社縁による共同態。①ムラ共同体の中途半端な崩壊、②プロレタリアートの日本的形成=「出稼ぎ型」。従業員が「企業の共同体化」を求めた。③企業家・経営者も「イエ意識」を持ち込んだ。イエ(家系・家業)の存続が最重要。「資本家・経営者と従業員との関係を親子になぞらえ、両者の利害は対立するものではなく、一致すると主張され、温情的生活保障政策が打ち出され」、会社への帰属意識を高めた。
 終身雇用=①新規学卒者を学校・縁故中心に採用、②中高卒者は学校推薦、大卒者は試験・面接(能力審査)、③担当する仕事は明示されず、雇用契約書ではなく「誓約書」の提出が求められる。就職ではなく就社。④企業内教育と人事異動で会社に相応しい従業員に、⑤定年まで解雇はないとの暗黙の了解。⑥定年退職の際に、退職金・企業年金が支給され、最就職先が斡旋される。
 年功賃金=長期決済型賃金。欧米は短期決済型賃金(2週間程度)。
 集団主義=「集団主義イデオロギーとして一般化して、会社内の制度がそれをベースにして構築されていった」。①全会一致の意思決定。賛成でも反対でもない状況。②集団単位の仕事。③個人責任の範囲が不明確。権限と責任が不一致。無責任体制。
  ※集団主義が受け入れられる素地があったことが重要。アジア的生産様式との関係。
 2001年に松下電器労組が早期退職制を受け入れたことで、終身雇用は神話としても崩壊した。現在は、正社員時代の終焉=共同態幻想の解消。
 年功賃金から成果給(生活できない賃金)へ。勤続年数と技能序列の不対応。
「人間には本能として貢献心(他人に尽くす気持ち)があり、その貢献心は組織のために尽くす気持ちに容易に転化する」。「これを生かすも殺すも経営者次第」。「ステイクホルダーとしての従業員」の2側面=①会社(経営者)と対峙する存在、②組織の一員として社会と対峙する存在。

 「賃金とは 労使関係の観点から」金子良事 2017年4月
 出稼ぎに関係する論ではなかったが、戦前からの賃金論が継続していることを知ったので、メモしておく。
「賃金統制令=国家総動員法第6条に基づく勅令。軍需インフレのもとで、物価統制と関連して、熟練工争奪に伴う賃金高騰の抑制と労務需給の調節を行うため、1939年(昭和14)3月31日、従業者雇入制限令とともに公布された。軍需に関連する鉱工業の50人以上使用工場に、賃金規則の作成とその届出を義務づけ、未経験工採用の際の初給賃金を公定し、その諮問機関として中央および道府県に賃金委員会を設けた。しかし適用外産業との初給賃金格差が拡大したので、40年7月指定工場を全工業に拡大し、ついで9月女子の初給賃金も公定した。これとは別に39年10月、賃金臨時措置令で9月18日現在の賃金を1年間凍結した。
 その期限切れに伴って、1940年10月賃金臨時措置令を統合し、全面改定された(第二次賃金統制令)。これは販売事業を含む全産業の10人以上使用事業所に適用され、〔1〕最低賃金の公定、〔2〕移動防止のための経験工最高初給賃金の公定、〔3〕賃金総額の制限、を行った。重要産業の熟練工不足と生産能率低下のため、42年2月造船など重要事業場労務管理令の適用を受ける事業所が適用除外となり、翌年6月改正により、賃金総額制限方式は賃金規則および昇給内規の認可による新統制方式に移行した。敗戦後、国家総動員法廃止により46年(昭和21)9月30日失効した。賃金統制令は戦時下の労働者の賃金を抑制したのみでなく、政府による賃金規則の強制を通じて年功序列賃金制度の確立を促進した。」(コトバンク 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」(2021年9月22日現在)
 「総額賃金制限方式」=事業所の1ヵ月当たりの賃金総額を総労働者で除した平均賃金を一定にするもの。この平均賃金をベース、ベースの引き上げ交渉をベースアップと呼ぶ。
「これに対して賃金統制時から、技量の向上による昇給は認められており、その昇給の増加分によって総額が増加することは許可されていた。」これを定期昇給と呼ぶ。
「ベースアップも定期昇給も賃金総額の増加分を決める要求と妥結の論理である。」賃金総額の増加が妥結した後、配分交渉が行われる。配分は平均的ではなく、政策的に実施される。

 

 ネットで検索1ページ目に出ていたものを適当に選択したので、意図はなかったが、冒頭の栢野氏以外は「出稼ぎ型」労働を容認している。現状の就社をめぐる諸事情を見てもこうした歴史的制約を否定する材料はない。
 すると、問題は「階級としての労働者」=労働者階級の存在如何になる。

 スウェーデンの社会民主主義

 「アジア的生産様式論」には私なりの結論を得たので、次のテーマを考えていたら、典型的な社会民主主義スウェーデンが浮かんだ。15年程前に友人に薦められて何冊か読んだことがあったが、その後も大きな変化はないはずだ。今回は、同国の政界の主軸となっている社会民主党綱領を入手できた。綱領は本来全文が尊重されるべきだが、あえて抜粋する。(出展:「ヨーロッパ社会民主主義論集(Ⅳ)」宮本太郎訳・生活経済政策研究所・2002年12月発行)

 ≪スウェーデン社会民主党綱領(2001年11月制定)から≫


〇すべての権力は、共にその社会を構成する人々に由来するものでなければならない。経済的な利害から民主主義に制約をかける権利は誰にもない。これに対して、民主主義は常に経済の条件を形成していくことができるし、また市場の働きを制限することができる。
〇資本の利益は周囲の世界に依存している。つまり資本主義は、社会制度のみがつくりだし維持することができる法や規則、インフラストラクチャーに依拠し、また自らの技術で生産に従事する雇用者と、需要をかたちづくって生産コストを支払う消費者に依存している。
〇階級という概念は、体制的に基礎づけられた人々の生活条件の格差であり、それは生産のあり方によってつくりだされ、人々の生活全般に影響をおよぼすものである。
〇階級格差は、人々が自由に成長し発展し、他者と同一条件で社会生活に参加していく可能性を制約するものである。
〇資本所有は、より匿名的な機関によるものとなっている。 → ①短期的配当要求の増大、資本の国際移動。②年金基金・保険会社の資本は賃金稼得者に依拠している。投資先への影響力の拡大。長期的には、資本と労働の境界線が緩む可能性もある。
〇三層への階級的分裂。資本所有層と、彼らからひきたてられた中間層が同盟して、労働市場において弱い立場の、あるいは労働市場から排除された層と対立する、という危険である。
〇平等を求めるとは多様性を求めることである。平等は差異を前提とする。しかし、社会的分裂とは相容れない。
〇連帯のためには、誰もがその能力に従って、社会生活と労働生活に対して貢献し、また責任をもつ必要がある。
〇ある発展の方向を、歴史によってであれ、宗教によってであれなんであれ、客観的に予定されたものと見る見方は、通常原理主義と呼ばれる。原理主義的な見方は、民主主義とは相容れない。この唯一の道についての真の解釈者を自認するエリートがいれば、その主観的意図の如何にかかわらず、結果的には独裁となる。
改良主義的な考え方は、民衆の多数派によって支持された、民主主義的な参加と改良に基づいていたし、今もそうである。改良主義者の責務は、人々の社会生活および労働生活への参加を漸次的に拡大することである。変革の仕事は、社会で生活する市民の要求と必要からスタートする。それがどのような要求と必要かは、常に進行する対話と討論によって定式化されていく。
〇生産手段の所有権を奪取することは、もはや決定的な要素ではなくなった。決定的なのは、経済の民主主義的コントロールであった。経済的民主主義は、権力を少数の機関に集中するようなやり方では不可能に近い。市民が生産の社会的条件を決定する権利や機会を扱うのと同様に、労働者や消費者の影響力も重視していかなければならない。
〇福祉改革によって、人々の移動の自由が拡大した。労使協約および労働法制と相俟って、労働者は、生活の資を得るために不合理な賃金や労働条件を受け容れる必要はなくなり、自らの生活を制御する力は強められた。福祉政策は、さらに生産の資本主義的秩序を変えることにも貢献した。
〇福祉体制が人々の責任を曖昧にし、そのためのコストが国民経済の競争力を損ねたと主張する新自由主義は、権力政治の表現であり、現実と合致しないイデオロギーである。人々が不遇なときにその行動力が高まり、また経済のもっとも重要な資源である人間が疲弊し弱体化したときに経済が強化されるなどというのは、資本主義的な神話にすぎない。
〇環境問題が示しているのは、民主主義的な経済もまた搾取的になりうることである。世代間の再分配という原理も含んでいる。
ジェンダー秩序。女性と男性とでライフチャンスに不平等が生じている。女性にとって人生における自己決定、自己発展の機会は制約されている。役割期待に縛り付けられた男性も人格的発展の機会を制約されている。男女の社会的相違を根拠づけるのに、生物的な相違を引き合いに出すことはやめるべきである。
エスニシティ性的志向性、障害、老齢などの差別的要因に対して、平等を目指す政策は挑まなければならない。平等のための幅広い取り組みの中に、社会民主主義にかかわるより挑戦的な課題が数多く含まれている。
〇民主主義は、共通の市民的関心にかかわる決定をおこなっていくプロセスである。それは複数政党制と普通選挙を条件とする。その基礎にあるのは、万人が等価で尊厳をもつという考え方である。
〇民主主義の射程は、民主主義自体によって決定される。社会のすべての権力は、社会をともに構成する人々に由来する。民主主義のプロセスと社会の管理が成り立つためには、それが公開され、監視されると同時に、明確で公正なルールが存在しなければならない。公行政における政治職や行政職は、すべての市民に同一条件で開かれたものでなければならない。
〇国際化は民主主義的な参加に対する新しい挑戦である。民主主義の一国的な政治形態と制度は、市民の関与を高めるべくいろいろなやり方で変革されねばならない。
〇私たちが求める経済秩序は、すべての個人が市民であり、賃金稼得者と消費者が、生産の果実の投資と再分配に対して、また労働生活の組織と条件に対して、影響力をおよぼす権利と機会を有するものである。ここでは、所有と企業の形態は多様である。市場は経済生活の一部であるが、社会的効用の源泉でも社会生活の規範でもない。私的利潤への要求が他の利益のすべてに優先し、社会の発展を方向づけるべきあるとする要求を認めない。市場と経済的利益の限界を設定するのは常に民主主義なのである。
〇民主主義は、公共の福祉のためにも、経済生活の効率とむすびつかなければならない。効率性と生産性は、開放性と多様性を必要とする。経済生活に対する多様な要求は、政治的決定によってのみ対処することはできないし、また市場的解決のみで対応することもできない。求められているのは、公的手段、市場メカニズム、強力な労働組合組織、思慮深く活動的で、強力な消費者法制に支えられた消費者がつくりだす混合経済なのである。
〇政治的決定を通して、あらゆる形態の搾取を抑止し、経済のバランスを確保し、生産の成果を公正に、かつ基本的な社会権に適合するようなかたちで再配分するルールがつくりだされなければならない。
〇市場は、福祉の資源をつくり出し続ける効率的な生産のために不可欠な存在である。資本主義と市場経済とは区別して考えられなければならない。市場経済は、財とサービスが交換手段としての貨幣をとおして所有者を変えていく分配システムである。それに対して、資本主義は権力システムであり、資本に対する収益をあげることを最優先の規範とするものである。
〇市場は、きわめて多数の自立したアクターによって構成され、こうしたアクターたちが、多様な発想を生み、そのことをとおして豊かな経済資源が生み出される。市場には財を集中させる傾向があるが、これは市場自体の存在条件である多元性と相矛盾する。市場の活動を支える価格メカニズムは、市場が十全に機能するために求められる安定したルールを生み出すことができない。市場から自立した公的機関のみが、こうしたルールや規制をつくりだし維持することができる。
市場メカニズムは、空気や水のような市場価格のない資源を扱うこともできない。
〇市場は、力強い需要というかたちで表出した選好のみに対処することができる。社会権を構成するような効用、収入の如何を問わずすべての人に提供されるべき効用というのは、市場という分配原理の外で、他の原理に即して配分されなければならない。ケアサービス、学校、医療サービス、法システム、文化、住宅、通信、社会的インフラなど。
〇公的コミットメントと市場経済の間で選択を行っていくときの出発点は、その2つのうちいずれが、公正および効率という点からして最善の結果を生みだすか、ということである。その選択は、経済を構成する多様なセクターごとに異なったものとなろう。
〇民主的経済は、異なった利益が相互に協調し、資本の利害に対して民主主義が優先される経済である。民主的経済は、人間も地域も、例外なく皆が福祉の創出に参加することができて、また福祉を活用することができる、そのような権利に立脚した経済である。
〇平等化のための政策は、常に、不平等によって不利益を被っている人々のニーズと条件から出発するべきである。しかしその一方で、平等を目指す改革にかんしては、多数派の人々がそれを正しいし有益なことであると確信し、その確信が改革を支えていなければならない。こうした裏付けがなければ、改革は持続可能ではない。平等な社会は、すべての人々の生活の幅を広げ、それを豊かにするときに初めて持続可能となる。
〇学校、ケア、医療は連帯の精神に基づき、税金によって財源調達されるべきである。
〇自らの収入源が失われたときに、良好な経済的保護がうけられるということは、個人の安全と自由にとって根本的な問題である。普遍的な社会保険体制だけが、個人の経済的保護という要請と、再配分政策をとおしての特定集団の保護という政治的な要請とに、共に応じることができる。
〇住宅政策は、普遍主義的福祉の不可欠の一部であり、ケア、学校、医療と並ぶ福祉政策の四つ目の柱である。住宅をもつことは社会的権利であり、住宅を供給することは社会の責任である。
〇経済成長の目的は、人間の福祉を増大させることである。
〇人間の労働は、資本と技術とを結びつけ価値生産的な雇用をつくりだすものである。人間の労働こそすべての福祉と文化の基礎である。
〇すべての人に仕事が行き渡り、また、働きたいと思うすべての人の技術と能力を活用する労働生活が形成される必要がある。完全雇用は経済的目標であるばかりか社会的目標である。完全雇用によって、すべての人々が福祉の創造に参加できる。
〇税制は、健全な経済活動に報い、重要な福祉サービスの財源調達を保障するように設計されなければならない。法的に単純で、明快であり、一貫性があって、課税ベースが広いことが基本原則である。
〇働く意欲のある人々が、(差別や偏見によって)労働市場のなかで無視されたり、貶められたりするのは、人間の尊厳に対する冒涜であり、社会的不公正の主要因である。
〇この国に居住するすべての人々は、国全体が活力に満ちた発展を遂げるということに共通の利益がある。地域が均等に発展していくことで、より多くの雇用が生み出されるし、国内の多様な資源がよりよく活用される。そして、その結果、共通の福祉のためにより多くの資源がつくりだされることになる。
〇すべての人々に知識を獲得する可能性と条件を提供していくことは、階級的関係を解体していくうえで中心的な事柄である。知識と能力は、しだいに、労働生活における個人の機会を決定づける道具となりつつある。こうした道具に接近するうえで大きな格差があるとすれば、労働生活における格差が拡大し、社会的格差も広がる。労働生活においてすべての個人に高い水準の知識と能力が行きわたるということは、他方において、生産を通してつくりだされた階級関係が変容するということを意味する。労働生活における高い水準の能力は、同時に、産業の競争力を強化し、このことを通して福祉の資源をも拡大する。
〇学習とは、学習している当人の参加と関与があってこそ成り立つプロセスである。教えるということはチームワークであり、知識への探求を触発する教師の役割と、自らの学習に責任をもつ学生の意欲と能力が、ともに尊重されるなかで成立するべきものである。
〇学年のない学校こそ私たちの政策的目標である。
〇平和こそすべての発展の条件である。目標となるのは、世界の資源を、世界の人々に福祉と繁栄の機会が平等に行きわたるように、公正に再分配することである。
〇国際問題と国内問題は融合している。国内政策と外交政策の境界は消えつつある。
〇世界のコミュニティは、ある人々の集団が深刻な脅威を受けたときは、仮にその脅威が国家機構内部の人間からのものであったとしても、それに対抗して行動できなければならない。
〇人権が侵害された場合は、どこでも同じ基準が適用されなければならないのであって、そうして初めて信頼が生まれる。

 

 スウェーデン社会民主労働党 出典: ウィキペディアWikipedia)≫

 スウェーデン社会民主労働党(Sveriges socialdemokratiska arbetareparti、略称: SAP、俗称: Socialdemokraterna)は、スウェーデンの政党。社会民主主義を掲げる中道左派政党である。現在同国最大与党。スウェーデンでは最も古い政党で、社会主義インターナショナルに加盟している。
 ※「社会民主党」は俗称ということになる。

●創党と選挙戦
 1889年4月に、ストックホルムで結党。1880年代の労働組合創設と、オーガスト・パームが主導した1882年にマルメ、1885年にストックホルムで創刊された社会主義新聞が結党に重要なきっかけになる。結党初期はドイツ社会民主党から大きな影響を受け、初期の綱領は社民党のゴータ綱領とエアフルト綱領をモデルとしたものとなっている。
 1896年に、ヤルマール・ブランティングが自由党の援助により、初めて社会民主労働党所属の議員として議会に進出した。1911年には共和制導入を党是のひとつに掲げるようになる。
 1917年に、自由党との連立政権に参画するが、同年に改革的指導部と急進左翼の間の党内紛争により、急進左翼が党を追い出される形となり、現在の左翼党の前身となる社会民主左派党を結党する。1920年普通選挙権と女性参政権が確保されると同時に連立を解消、単独政権を樹立し、選挙で樹立された最初の社会主義政権となった。以後、今日に至るまでほとんどの期間、政権を担いつづけている、スウェーデンの優位政党である。
第二次世界大戦以前~戦中
 社会民主労働党政権はスウェーデンモデルと呼ばれる福祉国家を築き上げてきた。一時期、党内では急進化が起きて、生産手段の国有化を主張する声が大きくなったが、経済危機と大量失業、ファシズムの圧力により、国有化政策の実現は凍結される事となった。世界恐慌が飛び火した1930年代には、1932年の選挙後に農民同盟の支持によりペール・アルビン・ハンソンを首相とする政権が構成された。ハンソン政権はケインズ主義に先駆けた財政政策を行い、リクスバンクの物価を目標にしたリフレーション政策にも押されて恐慌を日本と並んで最速で脱出し、国民の家をシンボルに福祉国家の形成に着手した。1936年に第2期ハンソン政権が成立すると、両政党間の連携は更に深いものとなり、議会の安定的な支持によって、積極的に社会福祉政策を取り入れることができた。
 第二次世界大戦では奇跡的に中立を維持したものの、福祉政策の実行は一定の制約を受けるようになる。そして戦時体制の確立や経済問題解決の為に、3党の主要政党が参加する挙国一致内閣が構成された。その間にも、普遍主義的福祉政策を完成させ、その支持基盤を盤石なものとした。
●戦後
 社会民主労働党の長期政権を通じて、完全雇用政策と第二次世界大戦以前に企画した本格的な福祉国家の実現が可能となり、1968年には、戦後最高となる50%以上の得票率を獲得した。しかし、スウェーデン経済は1970年代には行き詰まりを見せ、1971年の憲法改正オイルショックの後に経済問題、原子力発電所論争等から党に対する逆風が強くなり、1976年には、42年ぶりに下野する事になった。
 政権を譲り渡した6年後の1982年に再び政権の座に就いたが、オロフ・パルメ首相が1986年に暗殺され、党内は混乱した。後任の首相になったイングヴァール・カールソンは、1990年に30年ぶりの最大経済危機に直面して賃金凍結やストライキの禁止等を提案するようになる事態に直面する。また、東西冷戦崩壊のあおりを受けた事もあり、翌1991年に社会民主労働党は大敗して、保守の穏健党を中心とする中道右派連合に政権を譲り渡した。しかし、穏健党が経済運営に失敗し通貨危機をもたらしたため、1994年に早くも政権を奪還し、バブル経済崩壊の早期収拾に成功した。同年に、党指導部が主に賛成したEU加入を決定する問題により、一時党が分裂したが、加入決定後はEU問題に関する議論が起こる事は殆ど無かった。EUの中でのスウェーデン福祉国家の建て直しを模索し続けている。
 しかし近年のスウェーデンでは、中道右派の穏健党や自由党リバタリアニズムを捨てて福祉国家擁護の立場に転じたことにより、経済政策面では社会民主労働党を中心とする中道左派と穏健党を中心とする中道右派の違いがほとんどなくなっている。このような事情を背景に、2006年9月の総選挙で、社会民主労働党は穏健党を中心とした中道右派連合に敗北。12年ぶりに下野する事になった。2010年9月の総選挙では、野党として総選挙に臨んだが113議席にとどまり、再び中道右派連合に敗北。総選挙では初めて連敗し、また戦後最低の議席となった。その後2014年9月の総選挙において、社会民主労働党中心の中道左派連合が158議席を獲得して8年ぶりに政権に返り咲いた。
 
 ≪スウェーデンの「中立政策」 200年間参戦していない国≫
 
 スウェーデン外交政策の概略。(『スウェーデンの政治 デモクラシーの実験室』岡沢憲芙・奥島孝康編 19994年6月刊)
 1397年スウェーデン・カルマルで成立した北欧3国の同君連合盟約(カルマル同盟)で、デンマークノルウェーの支配者マルグレーテ女王が、スウェーデンの国王を廃し、姉の孫エリクを3国の王とし、自ら摂政して実権を握った。1523年に、スウェーデンデンマークと戦って分離し、同盟は解消した。
 その後、ロシア、ポーランドと戦いバルト海に進出し、「バルト帝国」を築いたが、大陸諸国の国内対立克服・対外拡張政策に会い縮小。ナポレオン戦争(1799~1815年)に際して、歴史的にロシアを最大の脅威としていたスウェーデンは、イギリスと同盟し、ロシアの同盟国フランスと対立した。その結果、フィンランドをロシアに割譲するなど領土の3分の1を失い、グスタフ5世は亡命した。
 スウェーデン議会は1810年、ナポレオン軍最高指揮官の一人だったベルナドット将軍を皇太子として迎え、1818年に国王カール十四世ヨハンとなった。その狙いは、フランスと同盟してロシアからフィンランドを奪還することだったが、ベルナドット自身は「北ヨーロッパにおけるイギリスとロシアとの勢力均衡下での中立外交」(1812年政策)を目指し、ノルウェー獲得を優先し、ロシアと同盟してスウェーデンノルウェー同君連合を成立させる。この政策は、「親イギリス・フランス、反ロシア」だったスウェーデン世論と矛盾していたため、その後何度も国際紛争介入を巡って蹂躙されそうになったが、普仏戦争(1870~71年)でのフランス敗北が決着を付けた。小国にとって、戦争は対外政策の手段としての有効性を失い、逆に、小国の主権を脅かすものとなった。ここに、大国による干渉を阻止する中立政策が確立することになった。
 第一次世界大戦の結果、ロシアは10月革命・内戦で弱体化し、ドイツは非軍事化され、フィンランド、バルト3国は独立、ポーランドは復活する中で、スウェーデンは大戦期を通じて防衛力を強化し北ヨーロッパ地域の軍事大国となった。
 第二次世界大戦中には、対ソ抵抗戦に臨むフィンランドへの志願兵黙認や物資支援などを実施し、ナチ軍隊のフィンランドへの列車通過を容認するなど中立政策に抵触する事態もあったが、戦争行為には踏み込まなかった。
 戦後は、国連第一主義を貫いている。

 スウェーデンの合意形成型政治≫

 スウェーデン政治の専門家・岡沢憲芙氏は、スウェーデン政治の特徴を「合意形成型政治」とする。(『スウェーデンの政治 実験国家の合意形成型政治』岡沢憲芙著 2009年3月刊)
 合意形成型政治(コンセンサス・ポリティクス)=社会のための価値の権威的配分の過程で、対決基調を希薄化し、物理的力や暴力の有効性を減じながら、時間をかけた調査と審議を通じて妥協点を模索し、政策同意を調達して、着実に合意範域を拡大し積み上げることを優先する政治スタイル。
 これを成立させるために次の4条件を抽出する。
 ①深刻な政治的対決軸の不在=調整可能課題への移行。
立憲君主制での国民的合意。社民党1920年綱領以降共和制を掲げているが、選挙戦で争点にしたことはない。
〇経済政策では、国有化の廃棄、福祉経済で合意。
外交政策では、非同盟・武装中立(武器自力生産)・国連主義で合意。1815年以来の200年にわたる平和の伝統に挑戦しようとする政党はない。
 ②問題解決ルールの整備と合意。
〇議院内閣制は1921年に成立したが、それ以来、左右の「過激派」政党は存在しない。
〇1970年以降の投票率は90~80%で極めて高い。参加と公開、平等と公正、理性と言論による利害関係者・少数派の抱え込み。
 ③政党リーダーのプラグマティズムと連合形成力=熟議と妥協。
〇現役生活時代に膨大な老後投資を要求する高負担社会は、全国民を既得権保守派に変換するので、結果としては、プラグマティックな心性を助長する。確実な手形決済を保証する実務家タイプのリーダーを要求する。
〇資料を可能な限り整理・保管し、改竄・紛失・廃棄しない。情報公開を徹底する。調査結果を公表し、時間を超えて補償し、未来からの批判に備える。
〇公務に携わる者が経済的・精神的腐敗を繰り返したら、福祉国家は建設・維持できない。
〇議員で構成される調査委員会が広範な意見を集約し、法案の枠組み作りに事前合意を生かす。意思決定過程では、与野党合作となる。これは、野党の政権担当能力教育ともなる。
 ④システムに対する究極的な信頼。
〇平和の継続は、政治的・経済的・文化的財産となっている。他国民に対して加害者になった記憶も、被害者になった記憶もない。
〇どんなに負担が大きくとも戦争発生でご破算になることはない、いずれ人生のどこかで戻ってくる。
〇意思決定者は、オール・オア・ナッシングの論争に没入する必要がない。

 ●こうした状況を歴史的に形成したのは社会民主党の主体的力量だった。
1.組織は全国的で社会全体に及ぶ。労組全国組織LO、青年・婦人・子供会・キリスト教市民組織・年金受給者・消費者運動・保険会社・住宅建設協同組合など。
2.社民党とLOの絆が切断されない限り、また「社民党を連帯保証人としない限り、どの党も政局運営にあたれない」。
3.政党への国公庫補助制度の導入で、すべての政党は、補助金・党費・募金による財政を実現し、大口献金者への依存を断っている。
4.実験政策を順次提出し、漸進的改良主義を実現している。

 ≪2つの感想≫

1.「労働」の位置付け。
 綱領を一読して、最初の印象が「労働」把握の相違だった。「労働」概念、その意味するものが違う気がした。
 極めて粗雑な私見によれば、古代的生産様式の一つである「ゲルマン的形態」→独立自営農民と、アジア的生産様式に基づく共同労働→賦役労働の違いだ。労働の成果が本人とその家族に帰属するという文化を形成してきた歴史と、成果が集団に帰属した後に本人に分かち与えられるという文化の差を感じてしまう。
 労働が価値を生み出すからこそ、「福祉と文化の基礎」であり、「完全雇用は経済的目標かつ社会的目標」であり、「完全雇用によって、すべての人々が福祉の創造に参加できる」。労働はただの「社会参加」ではなく、効率的に価値を生みだし、そのことで社会貢献していくのだ、という社会民主党綱領の積極的な労働観に圧倒されてしまった。
 日本の場合には、「過労死」が国際語として通用する程度に、「企業奴隷」から脱していない。労働は「会社から課せられた義務」であり、賦役と同等なのだろう。消極的・従属的労働観といえる。
 『賃労働と資本』の関係は、スウェーデンも日本も変わらない経済法則だが、その表現形態には歴史的刻印が深い。日本国憲法と同様に、戦後与えられた民主的労働法制はそれなりに整っているのだから、なし崩しにさせず「積極的労働観」を作っていく必要がある。
 
2.日本の歴史的・政治的現状は「深刻な対決軸の存在」にあり、「合意形成型政治」とは対極にあるといってよい。
 第二次世界大戦(アジア太平洋戦争)の戦後処理=サンフランシスコ講和条約(1951年9月調印、翌年4月発効)による片面講和(中国・インド・ビルマ・ユーゴ・ソ連ポーランドチェコとは締結せず)、米軍基地の維持がそれだ。
 沖縄が典型的だが、サ条約で米軍の信託統治領とされ、全島が軍事基地化された。1972年5月に日本に返還されたが、基地の実態は変わっていない。日本本島でも、要所に置かれた米軍基地は日米安全保障条約でほとんどそのまま残されている。首都東京がアメリカ陸海空軍に包囲されているのは、もう一つの象徴だ。「米軍基地撤去」は日本の独立国家化の要であり、対決軸として残っていかざるを得ない。縮小化が現実的な目標となろうが、自民党政権下では本気で取り組んでいるようには見えない。「思いやり予算」で厚遇している。
 領土問題も安保と絡んでくるのは、ロシアの態度で明瞭となった。「国民的合意形成」には相当な時間が必要だろう。
 
 (追記)
 アジアを置き去りにした戦後処理方針の根底には、天皇制維持という終戦受け容れ条件がある。その意味で、「偽の討幕密勅」で起こしたクーデターだったため、「玉」を担ぎ上げ続けざるを得なかった明治維新を引きずっている。
 半藤一利氏は『幕末史』(2008年12月刊)で、「現在の歴史学では、一連の沙汰や命令書は天皇が承認した証しである「可」の字もなく、すべて岩倉具視の秘書、玉松操が草稿したものを正親町三条実愛と中御門経之が分担執筆し、それを天皇の生母の父親である、中山が、天皇の手を取ってハンコをペタンと押したものであることが明瞭になっています。つまり、なーんにも知らない明治天皇がおじいさんの言うとおりにハンコをペタンと押したいわば偽の密勅ですので」(P260)と指摘している。
 そう言えば、「手を取ってハンコをペタンと」押させた歴史的事件がもう一つある。第二次日韓協約(1905年(明治38年)11月17日締結)だ。「ここで言う代表者個人への強制の事例としては、強硬な反対派であった参政大臣の韓圭ソル(ハン・ギュソル)の別室への監禁と脅迫、憲兵隊を外部大臣官邸に派遣し、官印を強引に奪い取極書に押捺した事などがあったとされており、その様子がロンドンデイリーメイル紙の記者マッケンジーの著書『朝鮮の悲劇』や、11月23日付けの『チャイナ・ガジェット』(英字新聞)に記載されている」(『ウィキペディアWikipedia)』。これにより大韓帝国の外交権は、ほぼ大日本帝国に接収されることとなり、事実上保護国となった。
 明治維新以来の大日本帝国の歴史と伝統は旧日本軍の中で生き続けたのだ。旧日本軍幹部が相当数残ったと思われる警察予備隊自衛隊でも「伝統」は息づいているのだろうか。

マスコミは、憲法討論・学習の場を365日設けよう

 2021年5月3日付朝日新聞朝刊に掲載された同社による郵送法全国世論調査(3000人対象、回収率73%)によると、「衆議院選挙の一票の価値が、都会では地方の2分の1程度でも憲法違反ではない」という最高裁の判断に対して、
 「大いに納得できる」4% + 「ある程度納得できる」36% = 40%
 「まったく納得できない」10% + 「あまり納得できない」40% =50%
となっていて、「日本の有権者」の法的意識が2分されている、としている。
 国政選挙のたびに、弁護士有志が「この判断」に異論を唱えて提訴するのが定例行事になっている。
 憲法14条第1項「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」を素直に読めば、基本的人権の核心部分の一つである「参政権」が、地理的要因で差別されて良い、とは理解できない。それを、「地方は過疎だから、都市住民の2倍の参政権を与えて良い」とするのが最高裁判決で、これは、本来、政治が議論すべき調整を司法が行っている政治的判断だ。地方の政治的評価を異常に高くするのは、藩閥政治の名残りなのだろう。
 「米軍基地」を巡る砂川事件の長沼判決(1959年3月)に関しては、最高裁の検討状況を最高裁長官が在日アメリカ大使に報告していたことが明らかになっているし、最近では、学術会議を巡って、内閣が任命するから「公務員の一員」であり、会議会員を内閣は選別できるという見解さえ大手を振ってまかり通っている。最高裁裁判官は内閣の任命だから、これも内閣好みに選別できることになる。いずれにしろ、日本の最高裁を含む裁判所は政治的に行政(国会・内閣)から独立できていないし、それを良しとしている。それが日本の現状であることを認めて、民主化していく努力が必要なのだ。
 さて、ここから本題に入る。放送を含めてマスコミ全体が、毎年5月3日の「憲法記念日」には憲法条文に絡む様々な特集を組むが、その場限りになっている。学校教育を含めて社会的にどれほどの憲法討論・学習が行われているのかを考えると、今回の朝日新聞の設問自体への法的理解度は不明で、感覚的に回答されているのではないかとの思いが強い。国民の憲法理解・浸透度の1素材としては有効かもしれないが、日本政界で現在行われている「憲法改正論議に寄与するにはまったくふさわしくない。
 安倍前首相が「憲法改正」を高らかに歌い上げてから8年経っても表層の論議を繰り返すだけで、現行憲法そのものの理解が深まっているとも思われない。ネットを含め、これだけの表現の場があるのだから、憲法討論のチャンネル・ユーチューブ・アプリなど365日8時間番組を作って、全103条を逐条検討する規模の国民的討議を組織できないだろうか。1年で終了する必要はない。社会的変化を含めて5年程討論すれば、論点を網羅・整理できるだろう。そうした継続的な憲法学習・討議抜きに世論調査を繰り返したところで、国民の一時的感情や保守性が表現されるだけで、日常生活の中で憲法を生かすこともできないだろう。