人畜無害の散流雑記

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「民主主義の危機」は存在するか?

 朝日新聞2022年8月12日付朝刊のオピニオン欄「山腰修三のメディア私評」に、「安倍元首相銃撃」事件を題材とした「民主主義という参照点から掘り下げて」という一文が掲載されている。
 趣旨を示す幾つかの文章を要約・抜粋する。「選挙後、この出来事に関する民主主義の危機という観点からの議論は急速に沈静化した。」「政治と切り離され、漂流する不満が暴力の形で噴出してしまったのであれば、それは「民主主義の敗北」にほかならない。」「近年、世界的な民主主義の退潮が繰り返し指摘されてきた。」「一般の人々の不満や要求を政治につなげる回路たるべき組織や制度が徐々に衰退し、民意は漂流を始めている。」「民主主義の危機がいかなる形で進展しており、今回の問題はその文脈においてどう位置づけられるのかを分析し、民主主義を支える諸制度を機能させるために何が必要なのかを論じることである。」
 随分と悲観的な世評だ。その原因は「民主主義」の考え方にある。「民主主義の危機」は存在するのか?

 民主主義は運動であり、現在は歴史的到達点にすぎない

 「民主主義」を固定的に捉え、欧米の政治的・文化的民主主義水準を標準として考えると、山腰氏のようになる。欧米の民主主義といえども極めて不完全・不十分で、宗教・人種・性的あり方など課題は満載だ。アメリカ合衆国に至っては、「合州国」なのであって、州ごとに政治的・宗教的・教育的・人種的な差異がある。大統領選挙では、代理人総取り方式で、国民的な得票数が反映するものではない。銃の所有が米憲法で保障されているというのも、民主主義より「暴力勝負」という国の性格が現れている。所有と使用とは違うはずだが、それを問われることもないようだ。トランプ前大統領が現代アメリカ白人民主主義の典型だ。
 ヨーロッパ諸国では、各国の課題を抱えながら、EUという実験を進めている。出発点は「平和の維持」だ。「経済圏の創出」はその過程で、紆余曲折しながら歴史的には前進している。

 日本国憲法を根付かせるのはこれからだ

 民主主義の究極的目標は「個人の尊厳」確立にある。日本の憲法は、第二次大戦時の国際歴史的到達点にあっての「最高の民主的法律」ではあるが、与えられた国民の政治的・文化的水準は「江戸末期」のままだった。徳川に代わって京都・天皇が、藩に代わって県が設置されたにすぎない。農民にとっての為政者は実質的には集落制度がそのまま残った。急速に資本主義化し、欧米列強の一員に加わろうとして制定した大日本国憲法は欽定憲法、つまり天皇とその取り巻きが作成したもので、国民的討議にかけられたとはとても言えない代物だ。しかも、制定当時、国民の大半は憲法の意味さえ理解していなかったと言われる。
 第二次世界大戦(太平洋戦争、大東亜戦争など=呼称はどうでもよい、その呼称に含まれている価値観を総括すればいいのだ)の結果、日本の政治機構の変化を象徴するのが、マッカーサー司令官と天皇が並んでいる一枚の写真だ。天皇が人間化し、マッカーサーの下位者になったことの表明だった。GHQは、日本の旧統治機構のうち、彼らが軍国主義的・敵対的と判断したごく一部分を排除し、残りは全面的に活用した。つまり、戦前の政治・行政機構=江戸時代末期から引き継いだものはそのまま残ったのだ。こうして、最新の民主主義的理念と幕藩体制下の残滓が、国民の生活全般でせめぎ合うことになる。
 戦後77年、そのせめぎ合いの結果が現在の日本だ。政治意識の遅れは幾らでも挙げられる。典型は最高裁判所の選挙権判断だ。「一票の格差は、衆院は2倍未満、参院は3倍未満なら合憲」だという。「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」(憲法第14条)という文言は日本では恥ずかしげもなく曲解される。日米地位協定に代表される安保法制は憲法体系を抑圧している。
 そんな中でも、日本国民は、「個人の尊重・自己実現」に向けて様々に努力してきた。男女格差の実際が明らかにされ、育児の社会的状況が細部で議論されるなど歩みは遅いが民主主義的には前進している。宗教二世問題も社会視されるようになったのは前進だ。
 
 個人的抵抗が繋がり合って社会は変わっていく

 民主主義が運動である限り「危機」はない。運動でなくなれば、つまり、「個人の尊厳を守る」という繋がりがすべて切れれば危機になるかもしれない。人間の歴史は、紆余曲折・前後進はあっても全体として「個人の尊厳」を確立する方向にある。日本国民が個々に闘い感じている苦痛は、前世紀の遺物との闘いであり、自力で克服するしかない課題なのだ。決して「民主主義の危機」ではない。民主主義を定着させ、拡大していく機会なのだ。SDGSなどという難問にさえ、国際的に取り組もうという気運がある。これなども民主主義の深化といえるだろう。建前と本音、総論と各論、計画と実行などの行き違いはあるのが当然だ。それでも、ここまで進んできている。ウクライナ侵攻などの戦争状態、コロナなどの疾病、食糧不足などがあっても、民主主義的原則を貫くことができれば、人間社会は存続できるだろう。
 
 【追記】
 この記事の上段に政治学者・豊永郁子氏の「寄稿・ウクライナ 戦争と人権」が掲載されている。結論が分かりにくい文章で3回ほど読み返してしまった。要するに「プーチン軍がキーフに進攻してきたとき、ゼレンスキーが白旗を掲げていれば、ウクライナ国民の人的被害は少なかっただろう。今からでも遅くないから、即自降伏してウクライナ国民の人権を守るべきだ」ということらしい。侵略する側と侵略される側との人権は同格ではない、という初歩的なことが理解できていないようだ。侵略する側は常に上位にあり、侵略される側は蹂躙される。ネットで見たら、朝日新聞編集者の見識への疑問を含めて、この記事には多くの批判があるので、ここではこの程度で。「万年民主主義危機論」や「対侵略戦争無抵抗論」という言論への新聞紙面上での討議を朝日新聞がどう扱っていくのか見ものだ。