人畜無害の散流雑記

別ブログ閉鎖で引っ越して来ました。自分のための脳トレブログ。

領有権放棄 戦後秩序=サンフランシスコ同盟体制からの脱出

 23年春になり、体力・気力が復活してくると、次のテーマを設定したくなった。現在の日本を規定する最大の要因はサンフランシスコ体制だが、これまで日米安保との関係では見てきたものの、改めてサ体制そのものを検討する必要があろうと考えた。そこで以下の3冊を入手し読んだ。
 『サンフランシスコ平和条約の盲点-アジア太平洋地域の冷戦と「戦後未解決の諸問題」』原喜美恵・著 溪水社 2005年6月刊
 『戦後日本のアジア外交』宮城大蔵・編著 2015年6月刊(アジア外交史だった。)
 『サンフランシスコ講和と東アジア』川島真・細谷雄一編= 2021年3月刊(米英仏、中台・韓国・フィリピンの対応。全体としてサ体制肯定の立場。)
 本稿では、当時の情勢下でのサ条約・体制の形成過程を追った原氏の論考を紹介する。
 
  サンフランシスコ同盟体制
 「序章」では「冷戦」との関係から説き起こす。
「冷戦を構造面から議論する場合、欧米のそれはよく「ヤルタ体制」と表現された」(一九四五年二月、クリミア・ヤルタでの英米ソ首脳会談)。「これに対し、アジア太平洋の冷戦構造はしばしば「サンフランシスコ体制」と呼ばれた」。サンフランシスコ体制は「現在の日本の領域」に限定されず、「かつて日本が支配を広げた地域、即ち東アジア太平洋のほぼ全域にわたる冷戦体制であり、条約の起草者、特に米国の戦略利害と地域の政治的多様性を十分に反映したものであった」。(P13~14)
 西側同盟国の日本への対応は様々だったが、当時のほとんどの「アジア近隣諸国にとって最大の関心事は、地域の安全保障」だった。「一九五一年、米国は八月三〇日にフィリピンとの相互防衛条約、九月一日にオーストラリア、ニュージーランドとの三国間安全保障条約(ANZUS)に調印し、九月八日には対日平和条約と日米安全保障条約に調印」。さらに米国は「同様の二か国間安全保障同盟を一九五三年に韓国、一九五四年に台湾、一九六一年にタイとの間で締結している」。(P15~16)本稿作成者は、これらを総称して「サンフランシスコ同盟体制」と呼ぶことにする。
 サンフランシスコ平和条約の第二章「領域」、第二条の一部項を以下に示す。
 (a)日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対する全ての権利、権原及び請求権を放棄する。
 (b)日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
 (c)日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
 (f)日本国は、新南群島及び西沙諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

 この項目について著者は問題点を列挙する。(P24~25、29)
 ①日本による朝鮮の独立を承認しているが、どの政府又は国家に対して「権利、権原及び請求権を放棄」したのかは明記されていない。当時、「朝鮮」という名称を持つ国は存在せず、韓半島には、朝鮮民主主義人民共和国大韓民国が存在した。両国ともサ講和会議に招待されていない。
 ②竹島(独島)は、日本が放棄した「朝鮮」に含まれていたか、否か?
 ③台湾、南樺太・千島、南沙・西沙諸島についても、日本の領土放棄が規定されているが、相手国・政府が明記されていない。当時、中国本土には中華人民共和国、台湾には中華民国が存在し、西側同盟国間に統一見解はなかった。しかも、領土の範囲にも明確な定義がない。
 これらによって、日本と隣国との間で、竹島尖閣諸島北方領土の帰属が将来の係争となる余地を残した。一九四五年九月の終戦から6年、これらの懸案を討議する時間は十分にあり、情勢の変化と対応を経て、サ条約にたどり着いている。その6年間の懸案事項の討議の変遷を追ったのが本編だ。
 しかも、ご丁寧に、「平和条約第七章第二五条には、条約に「署名し且つこれを批准」しない、いずれの国に対しても「いかなる権利、権原又は利益も」授与されるものとみなしてはならない、と記されている。それ故、ソ連も中国も日本が放棄した領土について何の権利も取得しなかった」。(P24)
 
  ヤルタ構想とアジア
「ヤルタでの主な議題は、ドイツ、日本の戦後処理と国際連合の設立であり、三国間で数々の取り決めが交わされた。そこでは、ソ連の協力を重視したルーズベルトが、ソ連の意向を尊重した様々な妥協をしている」。「ルーズベルトは、ソ連軍がすでに東欧のほぼ全土を占領している事実を考えると、ソ連が東欧で影響力を持つことはやむをえないと考えていた。また、米国は当時、対日戦へのソ連参戦、ソ連を加えた国連の設立といったソ連の協力を必要とする課題を抱えていた。ヤルタでの妥協は、いわば「協力の代償」とみなすのが適当であろう。欧州については、ここでの取り決めが、その後の東欧の共産化や、東西ドイツ分断等、一連の東西緊張の変遷を経て、冷戦構造の基礎」となり、「一九七三年のヘルシンキ合意で国際的現状承認を得」る。(P32~33)
 一方、対日処理は、太平洋戦での役割・犠牲者数などのかかわり方の強さから米国主導となった。英国は自国植民地と、欧州同盟国の植民地への干渉を免れ、東南アジアでの優位を認められた。「ソ連は当時、まだ日本と交戦状態にはなかった。日本との中立条約を破棄させ、ソ連を対日参戦させるための条件として、南樺太と千島列島の割譲等、ソ連東北アジア利害享受に関する秘密協定が取り決められた」。(P33~34)「日本がポツダム宣言受諾を表明した時、ソ連軍は既に朝鮮、満州樺太の日本領に進撃を開始していたが、千島列島はまだ手付かずのままだった」。「スターリンは、八月十六日、ヤルタ協定通り全千島列島をソ連軍の占領下に置くべきであるとし、さらに北海道の北半分も要求している。これに対し、トルーマンソ連による千島占領は承諾したが、北海道北半分については拒否する」。「スターリンの注意が千島列島に向いている間、朝鮮半島についてはソ連の単独占領は阻止されていた」。「米国は千島列島を交渉のカードとして利用したのである」。(P36)
 中華人民共和国の成立、朝鮮戦争勃発で、米の対日占領政策は激変する。「日本は米国のアジア戦略において中心的地位を与えられ、対日平和の方針は「厳粛」から「寛容」へと変わる。日本の経済復興と親米政権の樹立が、米国の占領政策の第一目標となり、平和条約の起草は、明確な米国政策が構築されるまで延期された」。(P71)
 こうして日本は、アジアにおける反共防波堤、政治的軍事的不沈空母の役割を担い果たすようになる。
 アジアでの冷戦体制では、千島列島・竹島尖閣諸島の領土問題はノドに刺さる小骨のようでいて、日ロ中韓を連帯させない歯止めとしての役割を担って来たといえる。サ体制の下では解決できないのだ。この枠組みを脱する方向が領土問題を解決し、アジアでの政治的経済的軍事的分断を解消することへつながっていくのだろう。
 
  領土問題解決=歯舞・色丹2島返還、尖閣竹島放棄でサ体制から脱する一歩を
 千島問題について著者は、平和条約交渉の準備として作成された一九四六年十一月作成の外務省英文調書に「国後・択捉が千島列島の一部として扱われている」と指摘している。(P122~124)豪公文書館で発見されたもので、日本政府は非公開だ。そういえば、安倍元首相が切り札として「二島返還」での手打ちを探っていたようだが、それが本筋なのだろう。
 米国主導でのアジア冷戦構想を実現しているサ体制を脱するためには、千島の二島返還、竹島尖閣列島の帰属権放棄で隣国との関係を大胆に改善し、覇権を求めない平和国家日本の姿を示すことが、アジア各国からの支持を獲得する道だろう。そのことがアジアの安定の基礎の一つとなる。
 現在進行中のウクライナ侵略・アジア冷戦再編は、ヤルタ体制・サ体制へのロシア側からの挑戦でもある。第二次世界大戦後の秩序を書き換えようとしている。核を使って日本を対米従属化に置いた歴史を見習って、ウクライナをロシア圏にとどまらせるか、またはクリミア半島・南部諸州を分割統治しようとしている。ロシアが核を使うかもと欧米が本気で恐れているのは、そのためだろう。米の核使用は国際的国内的に批判されてこなかった。国連常任理事国が自らの行動を律しきれない・国連自体にそれを止める手段がない、という現状では国連改革も待ったなしだ。
 戦後70年、世界は新たな国際協調、平和と安定を作り出す方向を探している。多極化もその一つであり、アフリカ・南アメリカ・アジアの国々の動向が注視される所以だ。悲劇の前に解決できるのか、悲劇が繰り返されるのか、まだ、方向性は見えていない。だからこそ、日本の領土問題提起は新しい視点に立った歴史問題解決への糸口となるだろう。

保守主義者の日本「平和」論はまだない?

 「保守の立場から様々な事象を論じる」佐伯啓思氏の論考にはつい反応してしまう。今回の『異論のススメ」は「日本の「平和」とは」だった(朝日新聞23年7月1日)。
 佐伯氏の結論は「日本文化のうちにある伝統的自然観やカミ観念という「思考の祖型」に「平和」の意識を改めて求めることもできるのではないだろうか。しかし、それは近代憲法の発想とは異なったものであり、今日の憲法9条の平和主義とはまったく違っているはずだ。われわれは、日本独自の「平和論」をまだ持ちえてはいないのである。」
 あれあれ? まだ持っていない? 保守合同から数えても70年近くになるのに? 日本独自の平和論を構築するのは日本の保守的学者・研究者の務めなのではないか? 持っていないのなら仕方がないが、できるだけ早く構築して発表してほしい。
 今回の論理の途中に、欧米の世界観との比較で「日本には、この種のメシアニズム的な歴史意識も一神教的な秩序意識もない」「自らの神(絶対的正義)を押し立てて、血みどろの戦争を辞さずという思想は、もともとの日本文化にも思想にもなかった」という文章がある。「独自の平和論」を展開する際には、この文章と、天皇が神だったこと、八紘一宇や鬼畜米英というスローガンを掲げたこと、真珠湾攻撃三光作戦、神風特攻隊などとの関連をぜひ解き明かしてほしい。台湾・朝鮮半島支配も加わるかな。
 
 今朝(7月6日)のニュースによると、ロシアのメドベージェフ安全保障会議副議長・前大統領が、ウクライナ侵攻作戦の「講和」に関して次のように述べたという。「1945年の米国による広島と長崎への原爆投下と同じことした場合だ」。広島でのG7会合を意識しての発言だが、米日支配層にとっては耳に痛いことだろう。そういえば60年前には「米の核は侵略的で悪だが、ソ連の核は防御的で善だ」と真剣に議論する党派もあったっけなあ。
 
 まったく違った話題を一つ。事件が起き、容疑者が逮捕されると、マスコミ報道は警察発表一色となる。明らかに裁判前に白黒が付いてしまう勢いだ。容疑者には弁護士が付くはずだが、警察のリークだけでなく、弁護士を通じての容疑者側の言い分も同時に報道される必要があるのではないか。

レッテル・放言の垂れ流し

 その昔、製造物責任が議論された時、「濡れた猫を乾かそうとして電子レンジに入れてチンした」という言説が本当にあったかのように流された。使用者責任を強調し、製造物者責任を回避しようとしたらしい。
 最近では、「性自認」をめぐって、「女性を自認することで男性が女性の風呂やトイレに侵入する」という明らかに猥褻罪に相当する想定を、「そういう声もある」と客観性を装いながら無批判に紹介する記事も頻繁に目にする。
 ※6月9日の衆院内閣委員会で自民党新藤義孝氏は「建造物侵入罪、公然わいせつ罪などの犯罪にあたりうる」と答弁している。(朝日新聞6月10日「焦点採録」)
 6月8日の朝刊には「日本人の税嫌い」(増税 どう思う?)との断定まで飛び出した。欧米やグローバルサウスの国民が「税好き」かどうか筆者は知らないが、同じ程度に「日本人の税嫌い」も知らなかった。
 本来、「税」は好きか嫌いかで議論するものではない。どうしてもその水準で議論したければ、「なぜ嫌いか」を議論することになる。しかし、そもそも議論するだけの知識を国民は学んできているのか? 学校教育では税の体系的教育はないし、就職しても所得税の申告は事業所単位で行われ、個人が計算し申告するのでもない。面倒な手続きを経て初めて、国民の一人一人の納税が国の財政を支えていることが実感できるのだが、実態はそうなっていない。さらに「ふるさと納税」で景品につられ、それを国が推進しているのだから、「税嫌い」増進策と言える。そういえば、所得税の捕捉率(クロヨンとかトーゴ―サンピンとか)は、現在どうなっているのだろう。消費税に至っては「益税」もある。税であれば、事業所の大小を問わず申告するのが当然だ。申告補助や小規模簿振興策とは別の話だ。(事業所が税務署の肩代わりをするという戦時態勢を今に至るまで引き継いでいるという説もどこかで読んだ気がする。事業所も余計な業務を担わされているということだ。)
 放言垂れ流しではなく、しっかりした現実的前提を踏まえて議論する姿勢は守ってもらいたい。基本的なことができなければ、有力保守政治家の「言ったもの勝ち」に終わってしまう。

 感性に響かない記事

 まずはいつも通り、「朝日新聞朝刊」からの引用。
「中世以降、「法の支配」という考え方ができた。一人一人の人間が尊重されるよう国家も法に従うべきだということで、それを憲法という形にした。日本では主権者が明治憲法天皇だったが、戦後憲法では国民とした。」(23年5月3日「いちからわかる! そもそも憲法って?」
「3月に海外メディアが報じて以降、真相を求める声は日増しに高まり、事務所は謝罪に追い込まれた。」(23年5月16日「時時刻刻 謝罪のジャニーズ 真相には背」)
「原爆はどこに落ちたのか。それは日本に落とされた。過ちに満ちた苦難と惨禍を経て、78年前、もう二度と戦争はごめんだと誰もが思った。」(5月20日天声人語」)
 
 ずっと引っ掛かっているので、やはり文章にしておく。
 素晴らしく「中立的」「客観的」「静態的」な文章。朝日新聞は、読者の心に届く記事を書くよう努力していると時折紙面で訴えているが、この文章には心が入っていない。だから、何も伝わらない。
 「法の支配」という考え方ができたからと言って、「法の支配」が実現したわけではない。法は、その支持者が努力しなければ実現も定着もしない。時には血も流してきた。しかし、日本では、主権者を「国民とした」戦後憲法を日本国民自身が作成したのではない。それだけに、日本国民が血肉化するのにそれなりに苦闘する必要もあり、天皇主権の明治憲法に戻そうとする勢力とのせめぎ合いもある。
 ジャニーズ事件はまるで他人事のようだ。大手ジャーナリズムとしての責任を感じているのだろうか? 欧米の牧師の性犯罪はそれなりに報道してきたようだが、いざ足元の事件になると「調査報道の名」が泣く。なぜ、調査しなかったのか・できなかったのかその自己批判抜きには記事に深まりは出ない。「深層には背」とは自らに投げ掛ける言葉だ。
 原爆は「どこに」落ちたのか・落とされたのかが日本の歴史的課題ではない。「なぜ」落とされたのか? それは太平洋戦争の結果だ。満州の土地略奪・南京侵略・重慶爆撃などの中国大陸侵攻、インドシナでの食糧略奪など日本政府・日本軍の行動の結果だ。「自虐の歴史」抜きに「原爆」が落とされたのではない。日本は被害国ではなく、加害国なのだ。もちろん、当時の米ソ冷戦の影響はあるが、問題は「被害者」然とした態度だ。決まり文句の「二度と戦争はごめんだと誰もが思った」も本当だろうか? そう思った国民もいただろうが、「米軍の下でなら戦争に勝てる」「戦争があった方が儲かる」という風潮もあったろう。「片面講和」「安保条約」締結は、「戦争はごめん」という態度とは異なる選択だった。


 乏しい知識からぼやいてみたが、今の日本の大手紙のジャーナリストはこんなものか、とあきらめるしかない。反面教師とボケ防止に協力してくれていると思えばありがたいかな。

あなたも「家族主義」か?

 くらし報道部・浜田陽太郎署名の「記者解説 子育て支援 誰が負担」(朝日新聞23年5月1日付)に以下の文章がある。
 記者本人には「頼れる子どもはいない」。一方、記者と同歳の知り合いは「4世代9人が一つ屋根の下で暮らす。これなら家族間の支え合いが期待できそうだが、もはや希少な存在だ」。
 これを読んだ瞬間に頭に浮かんだのが、大河内一男氏の『出稼ぎ型』労働観に基づいて分析された次のような一節だった。(筆者要約)
 
 労働への入口からして縁故による低賃金(「家計補充的賃金」)・低労働条件という負荷を掛けられ、貧困線上に浮上しかかると、縁故のぶら下がりが重しとなる。「子供が職につき、楽になるべき」はずが、親が低賃金の「補充を請け負う」、逆に、低賃金であっても父や母を「扶養してゆかねばならぬ」。全体として、収奪と搾取の二重三重の激しさ。

 浜田氏が『出稼ぎ型』労働概念を知っているかどうかをここでは問題にしない。問題は、彼の立論が家族主義的であり、個人主義ではないことだ。朝日新聞という看板を背負った記者が、個人を基礎とした社会を想定しきれていないことに驚いた。憲法云々を言い出すまでもないと思うが、現代社会の基礎は「個人の尊厳」だ。もちろん、欧米を含め現実との乖離は大きい。だが、この基礎に立脚しないと、立論の方向はまるで異なってしまう。生活保護の「家族問い合わせ」がその典型だ。先日の朝日紙上で批判的に論じていたばかりだが。
 もう一つ。「日本では、子どもを含めた家族を養う給料や手当を会社が出すのが「あるべき姿」という規範が根強い。」「安定雇用者層は、企業福祉より見劣りすると感じる「政府による福祉」に、無意識の敵対心を抱いているようだ。」という記述だ。
 前段は、「社畜」労働者の一表現だろうが、それが後者の「政府福祉への敵対心」に転化しているというのが新しい知見だ。データが示されていないので納得はできない。長く政権を支配してきた自民党を軸とする勢力が、個人主義的福祉政策を蔑ろにして来たことが反映していると見るのが自然だろう。
 ほかにもツッコミどころはあるのだが、考えているうちに鮮度が古くなるので、とりあえずアップする。

「無償化が医療費を大幅に増やす」とする「研究結果」の検証を

厚労省はこれまで、無償化が医療費を大幅に増やすとする研究結果や、不要な薬の投与の助長で子どもの健康を害するといった理由をもとに減額措置の必要性を強調してきた。今回は方針転換を迫られた形だ。」(朝日新聞23年4月6日 「高校生までの医療費助成 国庫負担の減額廃止へ」)

 少子化対策の一つとしての医療費助成が論じられているが、そこに出てくるのが「研究」結果だ。いつ・どこで・誰が・何を対象に実施された研究か? という説明はこれまで読んだ記憶がない。一般化して論じられるほどに常識化しているとも思われない。
 グーグルで調べると、「東京大学」の下に「子ども医療費「タダ」の落とし穴 ―医療需要における「ゼロ価格 ...」(2022/09/29)を見つけた。東大の2人の教授による発表で「「ゼロ価格効果」は、学生等を被験者とした実験では確認されていたが、実際の消費行動に基づくリアルデータを用いた分析としては、世界で最初の論文」だそうで、第三者による追試や再確認はされていないようだ。
「日本では、医療費の自己負担率は原則3割だが、子どもに対しては多くの自治体が助成を行っている。自治体間による助成競争の結果、市町村ごとに、①助成対象となる年齢、②自己負担額が異なる。②に関しては、3割分を全て負担して医療費を「タダ」にする無償化が主だが、それ以外に 10%、20%などの定率負担や、1回の受診ごとに 200円、300円といった少額を払う定額負担の自治体が存在する。/本研究では、人口の多い6県(294市町村)についてこれらの医療費助成の情報を2005〜15年の10年分収集し、JMDC社の6〜15歳のレセプトデータに結合しデータを構築した。そして、上記の①及び②に関する、市町村の内容の違い、及び導入のタイミングの違いを利用する、「Difference-in-differences method(差分の差分法)」という計量経済学の分析手法を用いた。」
 その結果だけが示されるのだが、データの精度や分析手法の選択が妥当かどうかの検証は示されていない。
 この研究の結論は、「ゼロ価格効果の存在は、裏を返すと、1回 200円といった少額であっても、自己負担を課すことで、ゼロ価格に比べて医療需要が大幅に減ることを意味する。そこで、少額の自己負担(200円/回)を課すと、1)どのような子どもの医療が減るか、2)どのような治療がより減るか、の検証を行った。その結果、1)に関しては、健康状態のよくない子どもが月に1回以上受診する割合は減らないが、比較的健康にもかかわらず頻繁に医師を訪れる子どもの受診が大幅に減る、ことがわかった。つまり、少額の自己負担は、不健康な子どもに悪影響を及ぼすことなく、比較的健康な子どもの過剰な医療需要を減らすことができると思われる。2)に関しては、「価値が高いとされる医療」と「価値が低いとされる医療」(注1)のどちらも減少するが、特に、後者の例である、不適切な抗生物質の利用の減少幅が大きかった。このような医療については価格を完全に無料とせず少額であっても自己負担を課すことで、不適切な治療を減らすことが可能と考えられる。」
 ここで「大幅」と言っているが、2倍・3倍になるのではない、示されているグラフではせいぜい数%だ。「大幅」という表現は数学的にもあいまいだ。「比較的健康な子ども」の受診であれば医師の手間はかかっても薬代はかかるまい。そのあとの「不適切な抗生物質の利用」も医師の処方の問題であって、患者側の責任ではない。
 少子化対策の一分野での医療費助成への議論が記事になると、いつもこの厚労省の言い分が提示されるが、繰り返されるうちに、これが一般化されて常識のようになってしまう。はたして、提示されている研究結果がどの程度のものなのかよってたかって検討する必要があろう。せめて、マスコミは、政府の言い分を無批判に掲げて片棒を担ぐのはやめてもらいたい。
 読者を巻き込んで議論するのなら、政府の審議会に提出されている資料を提示し、その是非の検討が必要だ。議事録が公開される審議会は少ないのだから、読者が審議するのが一番分かりやすいだろう。

保守思想家・佐伯啓思氏への違和感

 朝日新聞22年8月27日付朝刊の佐伯啓思氏『異論のススメ』に一言。今回のテーマは「安倍襲撃事件」だ。
 朝日新聞紙上での佐伯氏の論調は毎回慎重な言い回しに終始しているが、そこに違和感がある。佐伯氏は保守思想家だそうだが、朝日新聞側の保守の線引きと、佐伯氏側の朝日新聞への忖度=逆に言えば、「保守」マスコミへの忖度でもあろう=が重なり合った曖昧さが付きまとう。
 佐伯氏は1949年生まれで大学を卒業後、教育・研究界を歩んでいるが、本コラム筆者も、住んでいる界隈は別として同時代を生きている。それであれば、70年代末~80年代初頭の諸大学での原理研活動を知らない筈がないと思うが。原理研勝共連合で、自民党反動グループとの結合も見聞している筈だが。
 さて、標記論文での佐伯氏の論点への疑念を幾つか挙げておく。
1,「手製の銃による犯行」の容疑者が「普通の人」であった、との指摘。銃の製作・使用者は日本では「普通の人」ではありえない。自衛隊・警察官・競技者・暴力団のいずれかだ。
2,「通常の政治的テロではない。」「交わるはずのない、私的な復讐と政治的な公共空間が重なり合ったのだ」。そんな馬鹿な。この事件は政治的テロそのものだ。旧統一教会の被害者という「私的な復讐」と、手が届かない統一教会総裁に代わり、手の届くところにいる統一教会広告塔としての前首相・安倍晋三氏という「公共的空間」が重なり合った。
 1960年10月の立会演説会での社会党委員長・浅沼稲次郎氏への短刀でのテロ暗殺事件では、容疑者はアジア反共青年同盟所属の17歳男性であった。大物右翼政治家の思想的影響にあったといわれたが、少年鑑別所で自殺し、背後関係はうやむやにされた。この事件に比べれば、動機は判然としている。事件のその後の推移を見れば、目論見以上に、「旧統一教会」系の諸活動、特に日本の政治家への関わりに光が当てられている。旧統一教会被害者も掘り起こされている。
3,「リベラルな秩序の実現は、人々が、「目に見えない価値」を頼りにして営む日常の生によって実現してゆく。」「実際に「目に見えない価値」を醸成し維持するものは、人々の信頼関係……、ある種の権威に対する敬意、正義や公正の感覚、共有される道徳意識などであろう。」「それらは、あまりに急激な変化にさらされてはならないのであり、その意味で、「目に見えない価値」を重視するのは「保守の精神」なのである。それがなければ、リベラルな価値など単なる絵にかいた餅にすぎなくなるであろう。」なるほど、ムラ意識・集団主義・男尊女卑・上位下達など「目に見えない価値」が現在まで残り続けているのは、それらを残そうとする勢力がいるから、というわけだ。それらは「急激に変化」してはいけないものなのだ。
4,そして佐伯氏の結論。「今日あらゆる局面で「リベラルな秩序」は崩壊しつつある。」「それはリベラルな秩序を支える「目に見えない価値」が衰退したからである。」「リベラルな価値の普遍性という思いあがりが、現実社会の中で「保守の精神」を衰退させていった。」佐伯氏のいう「目に見えない価値」「保守の精神」の核心は何だろう。「大和こころ」「和の精神」「尊王攘夷」とかいうものだろうか? 佐伯氏の論調のどこにも、「個人の尊厳・尊重」という視点が感じられない。現代日本社会は、77年前に与えられた日本国憲法に書き込まれた国民主権・平和主義・個人尊重などという政治的権利・理論を、各種の抵抗を打ち破って定着しようと日々格闘している=「急激な変化にさらされ」ている真っ最中なのだ。「保守の精神」が衰退し、佐伯氏がリベラルだと感じているような秩序の崩壊こそが、日本社会民主化への道だ。遥かに遠く、辛い道のりであっても。