人畜無害の散流雑記

別ブログ閉鎖で引っ越して来ました。自分のための脳トレブログ。

ユーロコミュニズム再考   「資本主義でも社会主義でもない過渡期の社会構成体を認める」民主主義永続革命論

「ステイ・ホーム」を強要されて反発したかったが、ジムは閉鎖で自宅周辺を歩くか走るしかなく、また、都県越境「自粛」を打破する元気もなく、籠って本棚に残っていた書籍を手にした。ほぼ40年後の再読だったが、新たな発見があった。
 『「ユーロコミュニズム」と国家』 サンティアゴ・カリリョ著・高橋勝之/深澤安博訳 合同叢書 1979年1月刊。
 カリリョは、スペイン共和国防衛戦争(1936年7月~1939年3月)に従軍し、共和国崩壊後、欧米・中米・南米などを渡り歩き、世界大戦終結後、フランスでスペイン共産党再建活動に携わっていた。1960年からスペイン共産党書記長。フランシスコ・フランコ総統は1975年に死亡し、スペインは王制に復帰した。原書は、1976年2月にスペインに戻り、地下生活で12月にかけて執筆したもの。翌1977年4月に、スペイン共産党の合法化とともに出版され、日本語への翻訳・刊行は素早かった。刊行直後に入手し読んだという私のメモがあった。
 1991年のソ連・東ヨーロッパ体制の崩壊からすでに30年経っている。本書はその10年程前に執筆されているが、「ユーロコミュニズム」については現在でも通用する課題を提起している。本書の主題は「国家権力」だ。
「資本主義の国家機構の民主主義化の可能性について、その国家機構を強力によって根本的に破壊する必要もなく、それを社会主義社会建設のための有効な手段に変革するという可能性について確固とした構想を練りあげないかぎりは、我われは戦術主義であると批難されるか、あるいは社会民主主義と同一視されることになるであろう。」(P14)
 ユーロコミュニズムの課題は、「民主主義は資本主義と同体ではない。ということだけでなく、民主主義の擁護と発展は資本主義の社会体制を克服することを要求する。今日の歴史的条件においては、資本主義は民主主義を縮小させ、究極的には、破壊する傾向にある。それゆえに、民主主義は社会主義体制によって新たな次元に進む必要がある」と示すことだ。「社会主義革命はもはや、プロレタリアートにだけ必要なのではなく、人口の計り知れないほど多数の者にとっても必要」だ。(P50~51)「社会の多数者の名において語ることに習熟しなければならない。」(P52)
プロレタリアートは引き続き主要な革命的階級であるとしても、もはや唯一のというわけではない」。「他の諸階層、他の社会的諸範疇も、客観的には社会主義を展望する位置を占めつつあり、新たな状況をつくりつつある」。これは実践的確認だ。(P57)
 社会主義への民主主義的な道は「長い期間をつうじる公私の所有形態の共存を予想している」。「まだ社会主義ではないが、もう独占資本による国家支配でもない」局面では、既存の生産諸力と社会的業務を、私的創意が演じる役割を認めながら、「最大限に保持」することが課題となる(P101)。
 
「いつの日かにあるだろうXデーを想定し秘かに準備する」という企ては時代遅れであって、「Xデーはありえない」ことを明確にしているのがユーロコミュニズムだった。「Xデー」がなければ、「資本主義でも社会主義でもない過渡期」の設定は論理的に不可欠であり、実践的には不可避だ。
 資本主義の成長とともに拡大してきた民主主義思想には、「社会主義」概念が本来含まれている。政治的・経済的・文化的民主主義の拡大・深化・発展が、やがて、「資本主義でも社会主義でもない過渡期」を経て、次期の経済社会構成体を作り出す。
 この論は、丸山真男を師とした加藤哲郎が1990年に既に提唱している「永続民主主義革命論」と同類だと思われるが、彼の論理が市民社会論という概念分析から抽出されているのに対して、カリリョら西欧共産党幹部の「Xデーがありえない」とする指摘は具体的で、新鮮に受け止めることができた。40年も経ってその意味するところがやっと理解できるようになった。1970~80年に日本で議論された「国家論」でも他の学者・研究者が紹介していたかもしれない。