人畜無害の散流雑記

別ブログ閉鎖で引っ越して来ました。自分のための脳トレブログ。

「総体的奴隷制」の壁に挑む日本の革新運動

  ≪ 目次 ≫
1.明治維新学習のまとめ
2.アジア的生産様式
3.「全般的危機」論の転形
  A.「全般的危機」論の総括
  B.「短い20世紀」という歴史把握
4.階層化する「労働者階級」と左派の分裂

 

 服部之総から始まった維新史学習は、芝原拓自中村政則を経て、守屋典郎に辿り着いた。守屋『日本マルクス主義理論の形成と発展』は1967年10月刊で、2015年頃に書籍を処分したとき、小口が変色し本体の一部に折りもあったので残したものだった。読んだのは1975~80年の間だったろう。40年も前で内容は全く忘れていた。改めて読み直し、やっと維新史学習が決着した。ハーバード・ノーマンや中村政則は戦後論に触れており、さらに加藤哲郎とエリック・ホブズボームで現代史論にも踏み込めた。
 小論は、この3年ほどの学習の総括であり、これまで持っていた問題意識への現在の到達点でもある。

 1.明治維新学習のまとめ

 服部之総の維新史論は彼自身がすでに何回も触れていたが、「27年・32年テーゼ」を下敷きにしていた。つまり、コミンテルン日本支部日本共産党の政綱づくりの一環だった。大日本帝国憲法下の天皇制政府を革命的に変革するための準備作業として、その形成過程と現段階をどう把握するかという問題意識だったのだ。その学問的論争が「講座派対労農派」だったことは知っていたが、今回の学習はそこに戻っていたのだ。随分遠回りしたが、やっと明治維新を少しは理解できた。服部之総の「厳マニュ」論は「学史的なもの」(守屋)となっていた。
 1945年までの論戦の成果として、守屋論文「天皇制の基礎について」(「毎日新聞」1946年1月17・18日、前述書P177~185)から抜粋する。
明治維新いらいの日本資本主義の発展は、半農奴的零細耕作の土壌のうえに、強力に軍事的資本主義としておこなわれたのであるが、それは、維新によって成立した明治政府が、徳川幕府体制下の農奴制を、全国的規模において、統括的に継承した絶対主義政治形態であったことにその発端をもつ。一般に絶対主義政治形態は、封建制度の末期において、資本制生産様式の基礎的前提諸条件の成熟に対応して、旧封建的体制を打破して国内統一をなしとげ、国民のブルジョア的統一への段階として成立する。それはみずからは封建的あるいは半封建的地盤のうえに立ちながら、しかも本源的蓄積の槓桿として、農民・都市勤労者などにたいする経済外的強制と、その反抗鎮圧の機関として作用し、また商業的利益のための外征をおこなう軍事的強力として活動する国家形態で、世界史的に資本の本源的蓄積の段階に対応して現われるものである。(イギリスでは一四八五年から、フランスでは一五七〇年ころから、いずれも徳川以前の足利、戦国時代に相当)。」
「日本の絶対主義の成立したのは、世界資本主義がすでに充分発達し帝国主義の前夜にあった十九世紀半ば以後の一八六八年であるから、その育成した資本主義はもっぱら軍事的で、この軍事的資本主義は絶対主義天皇制によりかかって発達し、さらに帝国主義的政策を相ともなって発展していった。世界史的には資本主義前の国家形態である絶対主義が、資本主義の最高の段階たる帝国主義段階までこの国では持続し、それが独占資本の政策をも忠実に遂行し、両者が絡み合って世界反動の枢軸を形成したという点で、日本の天皇制はロシア以上に世界史的な意義をもつものである。」
「日本の国家形態が天皇制であり、それが独自の基礎をもちつつ、地主およびブルジョアジーの独裁形態でもあるということは、まず天皇制の経済的、物質的な基礎は、人民にたいする半封建的搾取収奪にあるということを意味する。事実、絶対主義天皇制が、その成立の当初にあたってその経済的物質的基礎としたものは、旧幕府の封建的搾取の対象であった貢租を、全国的に統合したにすぎない編制替えされた半封建的貢租であった。したがって明治二年から七年にかけて全国的に勃発した農民騷擾も、まず政府による封建的搾取の苛酷にたいしておこなわれ、さらにその苛酷を共にする旧名主、庄屋、高利貸などにたいする闘争となった。
 一八七三年(明治六年)、地租改正により、旧来の貢租は金納地租に形態を変化されたが、その目的は資本主義を上から育成するのに、より適しているためであった。したがって地租改正によって旧来の貢租は全国的規模で統一されたが、その内容は歳入においてはなんら減少しなかったものである。のみならず地租改正において絶対主義政府は、一地両主として地主と耕作農民と双方に権利関係があった土地、永小作権の成立していた土地を、単に地主のみに所有権を認めて地券を交付し、地主の権力を強め、その機構によって自己の地位をかためる方策をとった。そこで、これにたいする農民の反抗は、この耕作権の剥奪、苛酷な新地租、諸税、雑税などにたいしておこなわれ、天皇政府の政策を信ぜずして徴兵令、工役税などにたいしても立ち上がり、ついに明治十五年から十七年にかけて自由民権の政治的革命運動にまで発展したのであった(福島事件、加波山事供、秩父騒動など)。
 その後政府の租税体系は資本主義の発達に応じて変化し、地租の国税としての地位は低下したが、半封建的零細農耕をつらぬく諸関係はそのまま存続して現在におよんでいるので、国家による収奪が貢租の性質をもったことは変わりなく、その徴税組織には全官僚政治が組織されたのである。農民にたいする収奪形態においても地方税がとくに重く課せられ、とりわけ戸数割はその典型的なものであった。帝国主義段階にはいった大正いご農民運動はふたたび激化し、その組織である農民組合は全国的に統一されたが、それはさらに都市プロレタリアートと同盟して、権力にたいする闘争にまで進展するにいたった。軍閥=官僚の天皇制政府はこれを暴力的に抑えるのに一時成功したが、彼らが自己のために戦争を起こすや、欺瞞と権力とによって徴用と米の強制供出とを命じて、農民の収奪をさらに倍加していった。」
「地主の小作人にたいする搾取関係は、すでに鎌倉時代いらい、生産力の発展に対応して全体の封建的関係の支分的様式として発生し、封建全時代をつうじて発展してきた。この同一の搾取関係が維新政府によって農民の封建的身分よりの一応の解放ののちも依然存続し、さらに発展したのは、絶対主義天皇制の体制が半農奴体制のうえに立っており、さらにその権力の基礎を地主の半封建的小作人にたいする関係のうえにもおく方向と機構とをとったためである。地主は旧来の封建的搾取様式を継承しつつ、新たに天皇制によりその搾取の自由を全面的に解放せられたのであって、その後引き続く地主保護政策、とくに地租の漸次的減額によって、天皇制と地主制とは完全に結び合い、地主の小作人にたいする封建的搾取機能は地主に委付せられ、強化されたのであった。このことは経済的にそうであるのみならず、政治的にも地方自治制度を地主の自治組織として編成して官僚組織のうちにくみ入れ、また議会制度に地主的要素をとくに強化して、両者の結びつきを固めているものである。
 つぎにブルジョアジーは、そのよって立つ基礎を労働者にたいする搾取のうえにおいている。この労働者は、天皇=地主制の半封建的搾取=収奪によって農村から分離せしめられた無一文の階級であるが、日本の資本主義はすでに高度に発展をとげた現在まで、同一の封建的搾取条件を利用し、これを資本主義的搾取条件に追加して、自己の利潤を高めている。労働者の賃金は植民地的に低く、労働時間はながく、その生活は拘置的な寄宿制度、監獄部屋などでしばられている。天皇制はこの搾取制度の後見として労働者を奴隷のごとき無権利状態に押しこめていたので、それは敗戦の後までも連合国司令部の厳重な命令を受けるまで「国体護持」の名のもとに改める意志すらもたなかったものである。」
 戦後も、多くの近代史研究者がかかわっていることを認識した。特に、芝原拓自には学ぶものが多かった。『明治維新の権力基盤』での反幕府雄藩の動向が維新の在り方に繋がっていること、『日本近代史の世界史的位置』での、資本主義世界体制へのアジアの取り込み方や日本の資本蓄積過程、そして、『所有と生産様式の歴史理論』での生産様式論だった。
 
 2.アジア的生産様式
 
 唯物史観によれば、原始共産制から始まった人間社会は、やがて階級制となり、「アジア的、古代的、封建的、近代資本主義的社会構成体」を経たとされている。ここでは、「アジア的、古代的」生産様式について見る。
   A
 服部之総の見解では、「アジア的、古代的」は区分されている。
 〇アジア的生産様式。
 幾つかの土地の集団的保有=氏族的土地所有がさらに大きな統一体に結合され、最高または唯一の所有者が現れる。この結合的統一者は神格化され、氏族的構成員は神格者の財産(おおみたから)と見なされる(総体的奴隷制)。
 生産手段としての土地に対する本来の共同体的所有者(原始共産制)が結合的統一体の人格化たる-神格の所有に帰してしまったとき、奴隷制度がまだ現れていなくても総体的奴隷制が出現し、原始国家としてのアジア的専制国家=歴史上最初の対抗的生産様式としてのアジア的生産様式が発生する。やがて、集団的または個人的奴隷制度がアジア的生産様式内部に生まれるが、総体的奴隷制としてのアジア的生産様式の本質は改変されない。
 〇古代的(ギリシア・ローマ的)生産様式
 本来の財産形態は生産手段としての土地が各人によって所有され、その各人の家族の労働によって耕作される。但し、この自営農民の土地所有はやはり集団の構成員であることで保証される。つまり土地の集団所有が前提とされている。従って、古代ローマの農民は土地を自由に処分できない。集団所有が支配階級によって私物化され大土地所有が生まれると、小土地所有は呑み込まれていく。やがて、大土地所有者の土地は、個人的に所有される奴隷が耕すようになり、古代社会が出現する。
 共同体による土地分配に基く自営農民からなるギリシア・ローマ的財産形態は、奴隷制大土地所有へと転化する。
   B
 これに対して、芝原拓自は、「人類の始源での労働主体の本源的存在形態」を「本源的所有」とし、①種族の自然的素質、②土地の物性・気候による利用様式、③隣接種族との関係、④生産力の発展や人口移動を条件に、「アジア的形態、古典古代的(ギリシア・ローマ的)形態、ゲルマン的形態」と3区分する。
 ○アジア的形態=種族による土地の共同所有に基く直接的な共同労働。治水・灌漑事業を指揮する共同体連合の形成。最高統一体の神格化と共同体構成員の人格的奴隷状態(女王蜂と蜜蜂)。首長の統轄下での直接的共同行動によってのみ、共同体の再生産が維持できる低い生産力段階。
 ○古典古代的(ギリシア・ローマ的)形態=生産手段としての土地は、家父長制家族私有の「分割地」と共同体の公有地に区分される。分割地は家族の個別耕作が対応し、公有地は共同的任務=他の共同体への戦争行動の準備に充てられる。分割地所有者による戦士共同体ポリス。私的所有の目的は共同体と構成員の維持。アジア的形態の「戦士持分化」。ポリスへの服従、家父長相互の「自由・平等」と家族内部での家父長への人格的奴隷状態。
 ○ゲルマン的形態=土地は個人所有され、狩猟地・牧草地・伐採地・沼沢などが共有地。種族としての連合・共同体は必要に応じた時々の集会において実存する。家父長制家族による土地所有の目的は共同体と構成員の維持。自立した小経営生産様式の農民の連合。
   C
 「アジア的生産様式」について最新の見解としてウイキペディアを見ておくと(2019年11月13日現在)、
カール・マルクスは1859年に著した『経済学批判』の序文で、資本主義に先行する階級社会として、奴隷制封建制に並べて「アジア的生産様式」を挙げた。その後、この「アジア的生産様式」が何を意味するのかについて論争がおこなわれた。アジア社会に特有な歴史段階であり、独特な社会構成であるとする解釈、「原始共産制社会」の別名であるとする解釈、アジア的封建制であるとする解釈などが存在した。その結果、「古代奴隷制の一類型(アジア的変種)」という解釈が有力となった。
 ところが、1939年にソ連で発表されたマルクスの遺稿『資本制生産に先行する諸形態』が公刊され、マルクスの考えていたアジア的生産様式の内容が具体的な形で明らかになった。『先行する諸形態』のなかでマルクスは、アジア的生産様式は、古代的・封建的生産様式とは異なって、アジア的土地所有においては共同体の所有はあっても個人の所有はなく、個人は共同体成員としてそれを保有しているにすぎない、としている。これは、個人が土地(耕地)を分配されるのみの存在であって、共同体から自立できないことを示しており、これは原始共同体の社会構成とも異なることを示した。また、マルクスは、このような機能を国家的規模で管理し、支配し、共同体の生産と労働を貢納制度によって収奪しているのが専制君主であると指摘した。
 以上によりマルクス主義では、アジア的生産様式とは「原始共同体の解体によって発生した最初の階級社会」と位置づけられた。この生産様式は古代中国・インドにとどまらず、エジプト・メソポタミアなどの各古代専制国家、そして律令体制以前の日本にも存在したとされている。」
 つまり、アジア的生産様式は「総体的奴隷制」と把握しても間違いではない。
   D
 ここからが課題なのだが、一体、日本はいつまで「総体的奴隷制」が続いたのだろうか? 班田・荘園と名を替えたり、守護・地頭・武士豪族(戦国大名)と現地管理者が入れ替わったりしても、また、野呂栄太郎が1929年に至っても「国家最高地主説」を主張したことを考慮すると、日本全土の所有者=「神格化された統一者」は1947年5月2日まで存続したと言って良かろう。それが「国体」なのだ。
 エリック・ホブズボームは言う。「「枢軸国」の東の端と西の端で支配的だったイデオロギーの神話性は、じつに強力だった。自己犠牲・命令への絶対服従・自制と禁欲主義を信奉するなかで、日本ほど人種の優越性と人種の純化の必要性に確信をもっている国はなかった。」「日本社会は厳しく階層化された社会であり、個人(欧米におけるを「個人」と同じような意味が日本語の「個人」の語にもあったと仮定するなら)を国家や神聖なる天皇に捧げつくす社会であり、自由・平等・博愛を完全に拒絶した社会であった。」「ヨーロッパのファシズムは、帝国としての国家的使命をもつ東洋の封建制に収まりきれなかった。ファシズムは本質的に民主主義と普通の人々の時代に属していた。他方、ヒロヒトの日本では、自分たちで選んだ指導者を支持し、真新しい、真に革命のために大衆を動員する「運動」という考え方自体、意味をなさなかった。ヒトラーというよりはプロイセン陸軍とその伝統のほうが、日本の世界観に合致していた。このように、日本にはドイツの国家社会主義と類似する点があった(イタリアとの親和性はずっと低かった)が、日本はファシストではなかった。」(『20世紀の歴史(上)、P276~278)
 第二次世界大戦の敗北まで、日本は、天皇を「神格化された統一者」とし、地主・資本家階級同盟がそれを支えてきた。こう考えてこそ、天皇の葬儀・代替わりに伴う儀式・元号などへの国民の精神性が理解できる。国民の精神的文化は2000年来変わっていないのだ。奴隷解放に当たって、「解放されたら明日からどうしたらいいか分からない」と嘆いた奴隷のように、「国体=日本的なもの」を失うことを日本の支配層は極度に、保守層は必要以上に恐れているのだ。
 1947年5月に施行された日本国憲法も、世界の反ファシズム民主主義運動の成果を反映してはいたが、日本国民自身の手で獲得したものではなかった。
 日本近代研究者E・H・ノーマンは、1946年3月ニューヨークの外交協会での講演「日本の民主化の進展」で次のように指摘する。
「一九四五年八月の降伏につづく諸事件を徳川幕府の打倒以後の時期に比べてみることは一つの点で適切である。すなわちいずれの場合にも、人民は改革運動を自ら開始することをせず、かえって、根源的な力は上から来たこと、初めはそれが軍事官僚であり現在では最高司合官および占領軍である点である。」(H・ノーマン全集第2巻P412)「この、上からの改革の過程がこの程度までしか進まないことは明らかである。どこかその途中で、日本国民自身が自らの民主的な政府をひきうけ強化しなければならない。たとえば、最も完全な憲法草案や法律を公布させるだけでは十分でない。なぜならそれを創造し実施するために努めることができるのは日本人自身だからである。」(同P415)
 欧米に比べての日本の精神的後進性=自立性の欠如は隠すべくもない。その歴史的事実を見据えて、まずは日本への民主主義の土着化を「引き受け」て行くことになる。但し、「日本の民主化」が「民主主義の日本化」に変質しないよう注意が必要だ。
 この立場から見ると、日本共産党が、ロシア革命の世界的輸出を狙ってモデル化された「前衛政党民主集中制性組織」論を捨てられないのも理解できる。現在に至るも対峙しているのは総体的奴隷制の影なのだ。また、安倍晋三首相が、事あるごとに敵対とみなす勢力を「共産党」と名指すのも総体的奴隷制に全身が縛られているからだ。
 なお、民主集中制前衛政党が、現代的民主主義社会で総体的奴隷制の影を払拭していけるかどうかは疑問だろう。前衛政党自身が「神格化」する危険が常に潜んでいるからだ。

 3.「全般的危機」論の転形

  A.「全般的危機」論の総括
 加藤哲郎は「世界資本主義の全般的危機論」について以下のように総括する。
「一九世紀の西欧資本主義社会の批判的分析から出発したマルクス主義理論が、一九一七年のロシア革命にはじまる社会主義共産主義への世界史的移行の開始と非西欧社会の世界史への能動的参入を視野に収め、唯物史観の想定した人類史の継起的・段階的発展が前資本主義・資本主義・社会主義の諸社会構成体の共時的併存という過渡的形態をとっている事態を総体的に認識する枠組として採用されたもの」(『国家論のルネサンス』P183~184)。紆余曲折を経て、第二次大戦後には、社会主義陣営は「世界体制」に強化されたので「帝国主義の第二段階」とされ、1960年の81カ国共産党・労働者党「モスクワ声明」では、その世界体制が「人類社会の決定的な要因に転化しつつある」として「第三段階」論さえ登場した。
 そして、1981年に次のように指摘する。日本の「マルクス主義の場合、もともとソ連邦型「マルクス・レーニン主義」の定着度が強く、「全般的危機」論が現代資本主義論と同義に扱われてきた歴史的事情により、「全般的危機」論はなお一大潮流として残されている」(同P206)
 さて、問題は1989~91年の東欧諸国の政変とソビエト連邦解体後の世界を、「全般的危機」論との関係でどう見るかだ。先の加藤哲郎の定義を考慮すると、社会主義を標榜する国家が中国・ベトナムキューバなどごく少数となり、資本主義と伍して闘うほどの経済圏を失った状態では、「全般的危機」論も成立しないというのが妥当だろう。
 加藤哲郎は、ウォーラーステインのシステム論の枠組を使って次のように言う。資本主義世界システムのグローバルな展開途上での、パックス・ブリタニカからパックス・アメリカーナへの移行期における矛盾の世界史的集積の中で、その一焦点だった半周辺領域ロシアで起こった革命であり、脱システムを目指したが、脱しきれず半周辺のまま再包摂された。対抗システムだった「現存社会主義」の内部には、中心・周辺構造が反射的に構築されていた。「パックス・アメリカーナが、内部に抱えていたパックス・ソビエチカという対抗システムと一緒に終わり、ヘゲモニーの循環局面に入ろうとしている」。(『短い20世紀の総括』P42)
 管理された経済であった社会主義に対抗してきた〝管理された資本主義″は、その足枷を払いのけ、自由資本主義として世界を席巻しようとした。それに反抗を示したのが、冷戦下で抑え込まれていた民主主義の新しい動きだった。それが2001年1月に結実した「もうひとつの世界は可能だ」というスローガンを掲げた「世界社会フォーラム」だった。

  B.「短い20世紀」という歴史把握
 歴史家エリック・ホブズボームは「短い20世紀」という概念を提案し指摘する。
「「短い20世紀」の歴史は、ロシア革命とその間接・非間接的影響を抜きにして理解することはできない。とくに、ロシア革命が自由資本主義の救世主であることがわかったからだ。ロシア革命第二次世界大戦ヒトラーのドイツに対して西側を勝たせ、資本主義が自己改革するよう刺激を与えた。一見したところ、ソ連大恐慌への免疫があるようだった。それは自由市場への信奉を捨てる動機になった。」(『20世紀の歴史 上』P185)
 「短い20世紀」は3部からなり、1914~1945年の「破滅の時代」、1945~1975年前後までの「驚異的な経済成長と社会の変質が起きた」「黄金時代」、それ以降1991年のソ連崩壊を経過し現在までの「危機の時代」だ。著書は1994年刊で著者は2012年に没しているが、2019年まで「危機の時代」は続いていると判断できる。
 ホブズボームは「黄金時代」について「世界中あらゆる所で人間の生活を後戻りできないほど大きく変えてしまった」とし、「石器時代に農業の発明とともに幕を開けた人類の七、八千年の歴史が二〇世紀の第三・四半期に幕を閉じた」とさえ言っている。(同P48)そして、「社会主義は資本主義の黄金時代と同時期に主たる成果を挙げ」「一九六〇年代初めまで、両者は少なくとも互角にみえていた。」(同書P49)
 ソ連社会主義の崩壊は、「危機の時代」の「もっとも劇的な出来事となった」。その後数十年に及ぶ「世界規模での危機の時代が来た」。なぜなら、「黄金時代」に単一の世界経済が歴史上はじめて創られていたから」だ。共産主義政権が崩壊したことで、世界の政治は不確実・不安定なものになった。様々な国際システムが崩壊したため、それに依存してきた国内政治システムも不安定となった。「先進資本主義国で非常にうまく機能していた自由民主主義の政治システムは弱体化した」。「国民国家」という単位自体が、「国境を超える経済の力と、分離独立を求める地域的集団やエスニック集団といった国内勢力によりバラバラにされていった」。(同書P51~52)
 そして、「短い20世紀」末とその始期との歴史的構造変化を以下の3点とする。①ヨーロッパが歴史の中心ではなくなっていた、②「加速化するグローバリゼーションに対し、それと折り合いをつけられない公的制度・人間の集団行動はうまく対応できず、緊張が生じてしまっている」、③「古くからある人間の社会関係のパターンが崩壊し」「世代間の関係までも壊れてしまった、つまり過去と現在が断絶した」。(同書P58~61)
 「もし人類に未来が与えられるとすれば、それは過去や現在を延長して可能になるのではない」と彼は結論する。(『20世紀の歴史 下』P590)
 ホブズボームの見解を「ヨーロッパ史観だ」とする批判があるが、それはそれで良しとする。

 4.階層化する「労働者階級」と左派の分裂

 元外交官・社会評論家の佐藤優の著書を読んでいたら、〝労働者は自然発生的に経済的要求で闘うが、それを政治闘争にするためには階級意識を培うことが必要で、そのために「前衛政党」があった"と指摘していて、「ああ、そうだった」という思いと、社会主義圏が解体する中で、そういえば「階級としての労働者はどこにいったのだろう」という従来からの疑問が改めて湧き上がってきた。
   A
 その解答を『20世紀の歴史』が与えてくれた。「労働者階級」という経済的カテゴリーがなくなったのではなく、「労働者階級としての意識」が崩壊したのだという。19世紀中頃からヨーロッパで生まれた「労働者階級」という把握は、「社会における人間の立場」を重要視するものだった。「仕事で手を汚し」「貧しく経済的に不安定で」、他階層から社会的に隔離されて生活様式も違い、生活機会も制約されていた。パブ・公園・交流パーティー・スポーツ観戦・ピクニックなど「生活は集団で経験されるものだった」。「かれらの生活の重要な特徴である集団性」が「労働者を最終的に団結させた」。「運命をよりよい方向へ変えるには、個人としてではなく、集団として行動」しなければならないという確信だ。「こうした労働者階級の意識的な結束は、工業化が先に進んだ国では第二次世界大戦が終わる頃にあらゆる点で頂点に達した。その要素はすべて、黄金時代の数十年間で弱まっていった。長期に及ぶ好況・完全雇用・完全な大量消費社会が組み合わさったことで、先進国における労働者階級の生活は一変し、その後も変化をもたらし続けた。」「豊かになり、生活が個人中心になっていったことで、貧困と公共の場に集まることで築かれていたものは、崩壊した」。(『20世紀の歴史 下』P57~61)
 さらに「労働者階級内部のさまざまな区分のあいだににある亀裂が広がった」。「一九七〇・八〇年代の経済危機で完全雇用が終わり、福祉政策や「協調組合主義」という労使関係のシステム―労働者のなかでも、とりわけ弱い区分の人々をかなり守ってきた―にネオリベラリズムが圧力をかけるようになってからだ。亀裂が広がってしまったのは、労働者階級のトップ層―熟練労働者や監督する側の労働者―が近代的なハイテク生産の時代に比較的簡単に順応し」「自由市場の恩恵に実際にあずかることができたからだ」。「熟練した技術を持つ「立派な」労働者は、おそらくはじめて、政治的右派の潜在的支持者になった。伝統的な労働組織や社会党の組織は、とくに公的機関による保護を必要とする人々が増加中だったこともあり、当たり前ではあるが、富の再配分と福祉に熱心に取り組んでいたのだから、なおのことそうだ。イギリスのサッチャー政権は、本質的なところでは、労働党から熟練労働者が離れたために成功した」。また、「大量の人が移動したことで」「労働者階級のエスニシティと人種が多様化し、その結果、階級内部で対立が生じた。」「社会主義者による伝統的な労働運動が弱体化しつつあったことも、人種差別をしやすくなった要因」だ。(『20世紀の歴史 下』P62~65)
 生産の変化と肉体労働・非肉体労働の境界が変わり、曖昧になってきていることで「以前ははっきりしていた「プロレタリアート」の輪郭はぼやけ、消えていった」。(『20世紀の歴史 下』P67)
 加えて、国内賃金の低下・移民対策、女性運動、環境問題など特化した多様な政治運動が左派を分裂させ、従来の主要政党を弱体化させた。(同P270)
 日本の場合には、大企業―中小企業の格差が元々あった中で、1990年代からの低成長期に、人件費削減政策としての「希望」退職・子会社化や派遣労働の公認があり、労働者間の待遇が大きく変化した。企業協調労組育成に次ぐ成果で、日本の「労働者階級」は分裂・消滅した。
   B
 「社会化する生産力と私的な生産手段との矛盾」を体現するはずの「労働者階級」が消滅したとすれば、歴史の推進力をどこに求めるのだろうか。
 生産手段の私有に基づく世界企業の成立と、グローバルな自由貿易の推進・世界市場の成立は新たな問題を呼び起こした。一つ目は、豊かな国と貧困国との亀裂の広がりだ。これは、労働力の国際的移動だけでなく、国際的な賃金水準の平準化をもたらした。つまり、先進国労働者の賃金低下だ。二つ目は、国民国家の弱体化だった。公権力と法を独占し、政治活動の中核をなす制度だった国民国家は、その経済基盤も壊されつつあった。世界企業や超高額所得者の所得が十分に捕捉できず、さらに、ハイテクにより労働過程で排除された労働者と所得のない高齢者の増大で経済基盤は縮小するが、同じ理由で最低賃金や福祉という所得の再配分が求められた。三つ目は、環境・資源問題だ。資本主義的な経済成長が永遠に続くとはだれも考えていないだろう。
「先進諸国が抱えていた主要な政治的問題は、諸国民の富をいかに倍増させるかではなく、それを国民の利に適う形でいかに分配するか、ということだった」。これは発展途上国でも同じだった。「新しい千年紀、人類の運命は公的な機能が復活できるか否かにかかっている。」(同P575~576)
 「諸国民の富」は、グローバル企業や大小富豪の課税逃れによる内部留保・海外資産によって既に十分蓄積されているし、世界人口の増加率を上回る程度には今後も増やすことは可能だろう。これらをきっちり捕捉し適正に課税すればそれなりの分配財源になる。「企業課税を増やすと海外逃避する」論があるが、逃避する企業はさせておけばよい。教育・医療を含む日本のインフラを活用して生きていく企業をしっかり育て、応分の負担をさせればよいのだ。日本で営業する場合もしかりだ。
 現状でさえ、ベーシックインカムや最低保障年金などの政策が実験・議論されている。これらの福祉政策は社会主義的と呼んでもいいものだ。経済的には、社会主義の入り口まで来ているのではないだろうか。
 「公的機能」には既に幾つかの経験がある。国連・国際銀行・国際通貨基金・EUなどだ。これらの最大の欠点は「民意」が反映し難いところだ。逆に言えば、民主的管理の現代的在り方だ。国民国家でさえ、選挙制度が形骸化し、巨大化したメディアの世論誘導が目立ち、階級・階層が複雑化して、「民意」の多数派形成が困難になっているのに、グローバルな課題に諸国民が対応するのは、さらに困難だろう。しかし、これを克服することなしには、社会変革はできない。EUの試みが注目される所以だ。
 「階級としての労働者」が崩壊した今、新しい「公的機能」創設の推進力は、「独立した個人」が担うしかない。政治的民主主義の元素としての個々人の役割だ。スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥンベリ氏の行動に触発された運動、香港で典型的にみられたようなネット世界を中心とした「呼び掛け人」の判然としない抗議行動など、基本は組織ではなく個人なのだ。階級闘争は「民主主義の永続的革新運動」へと転換した。この運動が社会的影響力を強めるには、個人を組織し集団的に行動することが必要なのは言うまでもない。私人の集団は「社会」とは言えないからだ。
 個々人の行動がグローバルな行動に直接つながっていく、そういう時代になっているし、その傾向は一層強まっていく。世界フォーラム運動がその先駆として、多様な運動の間で各種の合意を作ることで、世界的な「公的機能」が発揮されていくのかもしれない。今のところ、萌芽はそこにしかないと感じている。
   D
 日本の場合には、まず、憲法が掲げた民主的理念を体現していくことが最大の課題だ。三権分立の確保、一票の価値の平等、最低生活権の保障など法律上の争点を含めて実生活での民主主義を少しずつ前進させていくしかない。選挙権を18歳以上に与えたことは肯定的に評価できるが、十分な歴史教育をせず・政治から遠ざけたままでは保守的な現状維持派になるのは当然だ。「独立した個人」という意識や生活態度は、日本では誰も歴史的に経験していない。今生きているすべての人々が新しい実験に挑んでいると言っていいのだろう。
 この点で、スウェーデンはじめ欧米社会のグレタ氏への対応は素晴らしく、日本にないものを明示している。気候変動への対応を大人に迫るために週1回登校を拒否し「ストライキ」を1人で始めた彼女は、アスペルガー症候群であることを公表している。同症候群の特徴は「興味の偏在」で、要するに彼女は「環境問題」に強いこだわりをもったのだ。にもかかわらず、彼女の説は正当だと生徒も大人たちも認め、その支援に取り組んだのだ。トランプ大統領は「かわいそうな病気の女の子」とつぶやいたそうだが、日本で彼女と同様のことをしたら、「登校さえすればいい」と説得を重ねられ、その本筋の説は黙殺されただろう。変人扱いされたかもしれない。「白い靴下」に限るというような校則に疑問を持つことさえ許されず・持ってもまともに取り合おうとしない教師や学校のある社会とは、まったく異質な社会が欧米にはあるのだ。
 「オルタナティブ」の書名に惹かれて読んだ『社会科学入門』に、ある女性研究者の以下のような驚きの憲法解釈に出会った。〝憲法13条「すべて国民は、個人として尊重される」。これは「性別無視の『普遍的』個人の理念である」がゆえに、「「女性」というカテゴリーの承認」ではなかった。「男女平等参政権とは、女性の性的アイデンティティの否定の上に成立する権利だった」。「参政権の主体となる「市民」は、基本的に男性を価値基準にしたライフスタイルを前提に形成された概念である限り」「他者性の共存を想定していない」。従って、「女性の側からのジェンダー・バイアスの指摘がなければ」「女性としての差異性・主体性を認めさせることはできない」。″(『〈自由-社会〉主義の政治学 オルタナティブ活動のための社会科学入門』世登和美論文)
 こういう読み替えが、人種・民族・宗教でも成立するかもしれない。
 論文の結論は、「女性が政治経済の公的領域に参入するだけでは、私的領域における男女の権力的関係を変革することはできないところに、問題の複雑性・困難性がある」だった。これでは「ジェンダーバイアス」という折角の指摘が、結局、家父長制に集約されてしまい、上野千鶴子の従来からの主張と重なってしまう。惜しい。